塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

デイビッド・ハルバースタムの言葉から

2022-08-12 19:48:40 | 日記
 戦争で最も犠牲になるものは真実だ

 この言葉の主はデイビッド・ハルバースタム。

 マイケル・ジョーダンの伝記「ジョーダン」
 ニューヨーク・ヤンキースを描いたルポタージュ「さらばヤンキース」

 を執筆したことでも知られるハルバースタムは、日本でも翻訳書が過去、相当数刊行されていたものです。

 ではサッカーで最も犠牲になるものは何でしょうか。

 サッカー監督の首
 暴力行為で失われてきた命
 スタジアムの老朽化で失われた命
 心筋梗塞や心臓発作で倒れ、失われた命
 降格やクラブ消滅によって涙を流したファンたち

 簡潔に言えば「人間」なのでしょうか。

 逆にサッカーという競技が誕生して以降、多くの人々に喜びをもたらしてきたことも事実であり、日本的発想でいえば「陰陽」という形がそこにはあります。

 1986年ワールドカップ、はるばるメキシコシティまで駆け付けたイングランドのファンは

 ディエゴ・マラドーナの明らかなハンドに憤慨
 一方で5人抜きの犠牲になるも、賞賛するほかないマラドーナのすばらしさ

 というまさに「陰陽」を経験しました。

 プレミアリーグには過去(1990年代まで)「ウインブルドン」というクラブがあり「ドンズ」の愛称で親しまれていましたが、恐らく今は存在していないと思います。

 理由はクラブの内部分裂が発端だったと記憶していますが、母国でもこのようなハプニングが起こるものなんですね。

 今はサッカーは「金」を中心に回っていますから、2021-22シーズンのエバートンのように成績が一向に上向かないのであれば

 ラファ・ベニテスを首にし、フランク・ランパードを指名
 ユナイテッドで全く出番のなかった、オランダ代表のファン・デ・べーグを呼び寄せる

 など「金」のために(プレミアリーグのテレビマネーはまさにけた違いですからね)「金」を使うという矛盾が生じます。

 それでもサッカーは続いていく、そう、どこまでも続いていくと思いたいものです。
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危機が真の変化をもたらす、という表現から

2022-08-12 19:38:36 | 日記
 危機のみが真の変化をもたらす。

 この言葉は米国の社会学者であるミルトン・フリードマンによるものと、ジャーナリストの堤未果が著書「岩波新書 貧困大国アメリカ」の189ページで引用しています。

 この著作が刊行されて10年以上経過しますから、安易に現状もこのままとは言えませんし、大リーグに移籍する選手は年々増加しています。

 まだMLSに積極的に移籍しようとするJリーグの選手、話を持ち掛ける代理人は少ないと思いますが(むしろkリーグ・クラシックの方に注目が集まっていますね)、米国への移籍は経済を含む様々な政治媒体を含むことを、改めて学んでおく必要があるように感じます。

 さて「危機」ですが、鹿島アントラーズとヴィッセル神戸では、その意味合いがことなるものの、指揮官交代という点では同様です。

 前者はこのままでは首位の横浜F・マリノスを追随できないうえに、AFCチャンピオンズ・リーグの出場権を得たとしても、2018年優勝のような結果と高揚感は得られないと判断しました。

 首脳陣が自己批判したように、セルクル・ブルージュへ上田綺世を売却して戦力を一瞬でも弱体化させたことは、指揮官であったレネ・ヴァイラーにとって明らかな向かい風でしたが、その後ろ向きな形を前向きにできなかった点が、袂を別つ理由になったのでしょうか。

 ヴィッセル神戸が現状、上記の格言のように「真の変化」をもたらしているかという言いますと、きっとそうではないのでしょう。

 ヴァイド・ハリルホジッチを招聘すべきだ
 なんとしても降格を阻止

 というファンの木道は当然ですが、むしろ「手」は開幕前に打つべきだったという気持ちもあるでしょう。

 主力に怪我人が多いことも事実ですが、真実を生み出すのは選手か指揮官か、という題目がある気がしますね。
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自分が仮に嫌われたとしても

2022-08-12 15:06:18 | 日記
 ウルグアイ代表のルーカス・トレイラ。

 彼はアーセナルではなくフィオレンティーナに残留することを希望していましたが、新天地はガラタサライ・イスタンブールになる模様です。

 ルーカス・トレイラはアーセナルが自分に最適な場所でもなければ環境でもないと発言し、イタリアでプレイし続けることを希望するも、2022ー23シーズンはトルコで暮らすことになる公算が高くなりました。

 日本ではサッカーに限らず職場と学校でルーカス・トレイラのように、(大胆にも)自分の環境を批判するとすぐに無視される、何言ってんだと文句を投げつけらます。

 ただ一人でも環境が不愉快と思うことは、何かが異なるという知らせでもありますから、皆で考える環境があるとも考えられます。

 ポルトガル代表の中心選手として知られたパウロ・ソウザ。

 彼は1999年、ボルシア・ドルトムントからインテル・ミラノに移籍し、ドレッシングルームで彼なりの建設的な意見を表明したのですが、同僚からはまるで聞き入れられず、パルマにレンタル移籍することになりました。

 1999シーズンノンテルは、パウロ・ソウザがユヴェントス時代に仕えたマルチェロ・リッピが指揮官であったものの、基本布陣の3-4-1-2の「1」で起用する、彼は本来の「4」のセンターが本職なのですが、この点でもソウザは苦戦していました。

 逆にこのポルトガル代表が本来の3-4-1-2,2センターでプレイし上々の姿を見せていたならば、提言として同僚達は受け入れた可能性がある気がします。

 ルーカス・トレイラも自分の発言が「わがまま」と受け取られる可能性があると感じていたと思いますよ。

 それでも自分を主張する、他人から嫌われてもよいという度胸が、サッカーでは必要なのですね。
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酷暑という言葉の中で

2022-08-12 14:50:40 | 日記
 スペインは陽射しが強い国ですね。

 とくにレアル・ベティスとセビージャ、二つのクラブがあるアンダルシア地方の照り付けが強烈であることは有名であり、人々はシエスタのために邸宅にこもります。

 僕たちは大抵の場合

 「昼間、昼寝する時間があっていいなあ」
 「僕たちも日中休めないかな」

 と安易に考えがちです。

 ただ、アンダルシアの方たちからすれば、酷暑のさなかに出歩く意味合いはさらさらなく、昼寝をしておいて夕方から夜にかけて体力を温存する、という現実的な事柄に対処しているわけです。

 よくフィリップ・トルシエが

 「キリンカップのような親善試合でも、日中に開催することは無意味だ」
 「選手を酷使するだけの形」

 と諫言を行いましたが、この点はまさに的を射ていた形ですね。

 日本でも酷暑、熱中症、水分補給の必要性が今の時期毎日指摘されます。

 僕は休憩時間60分の中、弁当を食べながら日経新聞を読むことに20分から25分費やし、残りの時間は机で昼寝をしています。

 小心者の僕は夜の眠りが浅く、熟睡できないので昼寝をすることが大切なんですね。

 今後、日本社会でも営業職やピザの配達員、郵便配達員、ビルメンテナンスなど強い太陽光線の中で働く方々に

 「この時間は屋内で休んでください」
 「自分の体調が大切ですよ」

 と通達がなされるかもしれません。

 スペインに移籍した選手たちが、夕飯の遅さに面食らいますが、夜間行動になれているスペインの方々からすれば、その風習は安全の観点から当然の事柄なのでしょうね。

 むしろアンドレス・イニエスタやフェルナンド・トーレスのように、日本で早めの夕食を食べるスペイン人選手も同様に面食らったと思うべきでしょうか。
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かつての野球中継を思い出して

2022-08-12 14:22:48 | 日記
 明日は長野県も台風の影響が甚大のようです。

 阪神甲子園球場で行われている夏の高校野球も順延になるかもしれませんが、あくまで学校生活の一部である以上、教員と両親からしますと順延は滞在費用が多くなるので大変でしょうね。

 ただ昔ほどではありませんが、投手の酷使が常に問題視されている以上、雨天順延は投手と野手に休日を「合法的」に与えられるメリットがあります。

 プロの先発投手が中5日は与えられる
 アマチュアが休養を与えらない、与えられてもせいぜい中1日

 では理屈は通らないと思いますが。

 1980年代、アマチュアだった日本サッカーは当然テレビ中継はなく「プライムタイム」と呼ばれる夜19時台で視聴できる競技は野球、言いかえますと読売巨人軍とその対戦相手だけでした。

 サッカーは90分で試合が終わるというある種の合理的側面がありますが、野球は「延長戦」の可能性もあります。

 巨人軍の試合は基本日本テレビが担いますが、当時は

 「最大延長21時24分まで」
 「ではこの辺で失礼したします」

 という形で、試合内容にかかわらず中継を(皇族番組のために)終了することもありました。

 当時、今では考えられない出来事ですが、テレビの視聴は父の一言で決定し、雨で中止になると少なくともテレビアニメを視聴できる可能性が増えたものです。

 一方で若い女性たちは、好みのテレビドラマをビデオ予約しても、延長戦が入ると録画設定を修正しなくてはなならず、いら立ちを感じていたはずです。

 大リーグ、つまり米国国内では衛星放送を含むテレビ媒体が今ほど充実していなかった時代、中継をどうしていたのか気になりませんか。

 逆に平日のお昼、つまりデイ・ゲームにあれだけの観客動員があることがすごいと思いますし、よく経済が回ると感心しますね。

 サッカーの認知度は米国国内でも上昇していますが、まだまだ野球には及んでいないのではないでしょうか。
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