塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

セルヒオ・ブスケッツ、FCバルセロナを退団へ

2023-05-10 14:37:52 | 日記
 FCバルセロナの顔として700試合に出場してきたセルヒオ・ブスケッツ。


 彼はFCバルセロナ退団を決めたそうで、移籍先には北米だけでなく日本も検討していると聞きます。


 仮に同僚であったレオ・メッシが来季、パリ・サンジェルマンから復帰する可能性が全くない、とは言い切れないという不確定要素。


 この移籍がブスケッツにとってFCバルセロナに残留するのか、移籍先を探すのかの決断を遅らせ、迷わせてきたと言いますが彼は移籍を選びました。


 FCバルセロナは財政に全くゆとりがありませんし、何より30代半ばの選手に高額報酬を支払いたくないというのが、ジョアン・ラポルタの考えなのでしょう。


 少なくとも彼にも、バルトメウ時代がここまで財務に無頓着とは思わなかったという面はあるでしょうしね。


 若い選手が熟練者を手本にする
 彼らが成長し、入団したばかりの選手に声をかける
 そうして競争が始まる


 と言う考えがあってよいとは思いますが、ブスケッツを移籍させることはポジションを奪うのではなく、空けるという形になります。


 セルティック・グラスゴーは横浜Fマリノス
 FCバルセロナはヴィッセル神戸


 と、夏季ツアーの対戦相手が徐々に判別できてきました。


 「楽天」の影響がまだ色濃いのか、ヴィッセル神戸とFCバルセロナが対戦するならば、アンドレス・イニエスタと入れ替わる形でセルヒオ・ブスケッツの獲得、には至らないものでしょうか。


  内田篤人は昨日の報道ステーションにおいて


 「ビッグクラブの存在意義」

 を語りましたが、そのビッグクラブには当然、海外の有名選手がいるべきではないでしょうか。


 ブスケッツ、ヴィッセル神戸以外のクラブ、外国籍の空きがあるならばぜひ検討してほしいですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スタジアムと人名について

2023-05-10 14:25:12 | 日記
 あらにゃんこ様、ご愛読ありがとうございます。


 ACミランが呼ぶ「サンシーロ」を、インテル・ミラノがジェゼッペ・メアッツアと呼ぶのは、彼、つまりジュゼッペ・メアッツアが2次大戦以前のインテル・ミラノを代表する名手だったことに起因しています。

  
 ちなみにインテル・ミラノの歴史において最高の選手と言われているメアッツア、実はアタランタとACミラン、ユヴェントスにも在籍経験を持ちますが、ミラノではクラブの違いが批判されることなく、大きな敬意を集めた存在と聞きました。


 鹿島アントラーズがスタジアム名を「ジーコ・スタジアム」
 名古屋グランパスエイトがホームスタジアム名を「ドラガン・ストイコビッチ」


 にするようなものでしょうか。


 僕はちなみにAC長野パルセイロの新スタジアム建設の際、スタジアム名が募集されると漠然とですが


 「バドウ・ビエイラ・スタジアム」


 はどうかと考えました。(応募はしていません、ただ考えただけですよ)


 バドウ・ビエイラと言えば


 2014年、解任されるも京都サンガの指揮官となる
 1997年アジア最終予選でイラン代表を率いる
 ハンブルクでプレイしたイラン代表マハダビキアは彼の教え子

 
 と言う点が知られています。


 バドウ・ビエイラの時代、AC長野パルセイロはまだアマチュアクラブでしたが、彼の就任からプロとは何かを模索し始めたと思いますし、現在の土台を築いてくれたとおもっていたので、スタジアム名にする価値はあると考えたのですが。


 ちなみにレアル・マドリードのサンティアゴ・ベルナベウも人名で、それ以前はチャマルティンと言いました。


 名物会長の名前がスタジアムに刻まれることは、当時としては画期的だったと思いますよ。


 漠然としたお金になる「ネーミング・ライツ」よりは味があるかもしれませんね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二つのクラブが共同でスタジアムを使用すること

2023-05-10 10:21:29 | 日記
 読売巨人軍が後楽園球場から東京ドームと、東京都から動かない事実はプロ野球発足当時から変化がありません。


 その一方で「北海道」日本ハム・ファイターズも、過去後楽園球場を本拠地にしていた時代があるんですね。


 その両チームが日本シリーズでぶつかった1981年は、全日程が後楽園球場で行われるという形になり、さぞかし東京都民は盛り上がったのではないでしょうか。

 
 大リーグが移転と球団拡張でできる限り米国全土にチームを置こう、と言う意思がある一方、日本ではその役割を独立リーグが果たし、プロ野球は12チームを維持しているという形が得策なのか、正直わかりません。


 ただ現在では福岡と仙台にもチームがあるのですから、かつてよりは良い環境とも言えます。


 今日10日はUEFAチャンピオンズ・リーグ、ACミラン対インテル・ミラノが行われます。


 同じ「サンシーロ」開催ですが、今回はミランのホームと言う形です。


 ACミランもインテルも、冬季の芝が最悪のサンシーロ(これはミランの呼び方、インテルはジュゼッペ・メアッツアと言います)を離れ、新スタジアム建設を長年検討してきました。


 2012年、ユヴェントスは評判の悪い「デッレ・アルピ」を離れ


 ユヴェントス・スタジアム(現在はアリアンツ・スタジアム)の建設に成功
 自前のスタジアムであり、常に稼働率を考えられる
 専用スタジアムであるため、臨場感が素晴らしい


 と言う形を、ビッグ3で初めて実現させたのです。


 今、ミランとインテルのスタジアム問題はとん挫しているはずですが、仮にサンシーロが不要となればミラノ市が解体費用を持つのか、両クラブにも費用負担は必要なのか、と言う点もあるのではないでしょうか。


 イタリアは文化遺産の多い国ですが、ASローマのスタジアム構想に「待った」がかかりました。


 ユヴェントスの事例はある意味で特例と言えるように感じます。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パルマは財政で揺れた時代があります

2023-05-10 10:08:20 | 日記
 そのパルマはオーナーシップで揺れたクラブでもあります。


 例えばJ1では鹿島アントラーズが15億円でメルカリの傘下となりましたが、欧州と北米ではオーナーシップというのは計り知れない価値があるんですよね。


 浦和レッドダイヤモンズが先日、AFCチャンピオンズ・リーグ2022の勝利者となりましたが、これも支援する三菱が当南アジア諸国でビジネス面において、他の日本企業よりも優位に立てるとの声があるのは、サッカーと企業の価値観が一体化しているためです。


 パルマの場合は

 
 1・乳製品パルマラットのオーナー、カリスト・タンツイの時代
 2・2010年代のオーナー、ギラルディの時代


 が思い出されます。


 パルマラットはパルマ以外にもブラジルのパルメイラスを支援するなど、サッカーにおけるスポンサーシップを、自社製品の消費拡大と知名度向上に役立てていました。


 しかし、スクデット獲得は2位が最高でどうしても届かない、地方クラブがACミランとユヴェントス、低迷はしていましたがインテル・ミラノという伝統クラブにどうしても勝てないわけです。


 おまけに2000年にラツイオ、2001年にはASローマが優勝し、パルマとしてもスクデットは必須というわけで人件費用はどんどんと高騰し、結局選手を売却することで帳尻合わせがうまくいかず、粉飾決済が行湧割れてしまいます。


 この形はギラルディ時代も同様で、UEFAカップの出場権を求めて揉めたことが明るみになるという、ある種の皮肉でした。


 パルマからの移籍選手で一番得をしたのがユヴェントスでして


 1・イタリア代表 ジャンルイジ・ブフォン
 2・フランス代表 リリアン・チュラム


 がユヴェントス守備陣の代名詞でした。


 財務の問題ではなのですが、チェルシー最大の盟主であるジャンフランコ・ゾラ、彼もアンチェロッティ時代から自由を求めて移籍した、ある意味バッジョ同様に優れた個性が求められない時代の存在だったのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パルマの歩みを振り返って

2023-05-10 09:56:08 | 日記
 藤枝のクライフさまより「パルマ、プーマと再契約へ」と昨日のブログにご意見を頂きました。


 ご指摘のように1990年代、パルマがアンブロと契約して時期ありましたね。


 1990年代のパルマはプロビンチャ、つまり地方クラブの枠をあるいみで飛び越え、UEFAカップやコパ・イタリアで優勝する、獲得していないのはスクデットとUEFAチャンピオンズ・リーグだけという素晴らしい戦績でした。


 特にACミランが保持するリーグ58戦無敗を破ったのはパルマであり、コロンビア代表のファウスティーノ・アスプリージャの得点でした。


 2000年ごろまでパルマには


 エルナン・クレスポ アルゼンチン代表
 ファン・ヴェロン アルゼンチン代表
 アリエル・オルテガ アルゼンチン代表
 トマス・ブロリン スウエーデン代表
 フリスト・ストイチコフ ブルガリア代表


 が控え、特にストイチコフはFCバルセロナ時代のように派手な活躍には至りませんでしたが、1994年バロンドール受賞選手が在籍していることだけでも異例といえたものです。


 1990年代中期、パルマは指揮官をネビオ・スカラからカルロ・アンチェロッティに交代し、希望したロベルト・バッジョの獲得を見送ります。


 アンチェロッティは当時まだ駆け出しで、敬愛するアリゴ・サッキ同様特定の選手に依存する戦術を好まず、バッジョの獲得は不要と首脳陣に伝えます。


 その一方でアンチェロッティはユヴェントスに移籍すると、ジダンを軸にした3-4-1-2,ACミラン時代はカカを軸にする4-3-1-2を採用するなど、成長するに従い戦術に幅を持たせます。


 パルマというのは優勝と指揮官の成長の場、当時は両方兼ね備えていたと考えられます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする