「般若心経、こころの大そうじ(名取芳彦さん著)」から「人の性格は変えられる」についてお伝えします。
般若心経は、観自在菩薩が深い般若波羅蜜多を行じて(修行して)いた時に、という文章で始まります。
行深般若波羅蜜多という言葉の意味がいま申し上げたことのようですが、それでは、般若波羅蜜多とはどういう意味なのでしょうか?
ところが、この難しい漢字には何にも意味はない、と著者は言っています。すべてサンスクリット語の音写語だからだそうです。
では、「般若」は何というかといいますと「プラジュニャー」というそうで、「智慧」という意味だそうです。
「波羅蜜多」は「ハーラム・イター」だそうで「彼岸(迷いのない心安らかな境地)に到る」という意味だそうです。
「般若波羅蜜多」が「プラジュニャー」「ハーラム・イター」の音を表す言葉だというのですから、驚いてしまいます。漢字の意味を考えるな!という教えは面白いものです。
ということで、「般若波羅蜜多」は「彼岸に到るための智慧」という意味になりますが、より深く、広い意味があるそうです。
その深く広い意味、というのが小生には理解できないのですが、ここでは、深い般若波羅蜜多を行じて(修行して)いた時の「修行」が大切なようです。
その例として著者は「認知症になってもその人の性格は残りますよ。」とお医者さんに言われる夢の話をしています。
著者は、舌を出すのも嫌がる吝嗇家も、虚勢を張る見栄っ張りも、清潔好き故に不潔を憎悪する潔癖性も、人の意見を聞く耳を持ち合わせていない頑固者も、認知症になればみんなポカーンとしてしまうだろう思っていたそうです。
ところが、夢で「残る」と医者にいわれたものですから、大変ことだと慌てたようです。
何が大変かと言えば、それは、「心の奥底に秘めている、自分でも意識したことがない、ドロドロとした醜い化け物が姿を現すような気がした」のだそうです。
お坊さんで言えば、「慈悲を説教する坊主にかぎって、自分じゃ慈悲に生きてないバカ坊主が多いもんだ」などという、人を馬鹿にするような言動をするかもしれない、というような心配だそうです。
小生などは、それは認知症がなせるワザだから仕方がないのでは、と思うのですが、そうはいかないようです。
そこで、お医者さんに聞いたそうですが、そのお医者さんは「人の性格は死ぬまでなおらない、というのは本当だ!」と答えたそうです。
でも、こうも言ったそうです。「そりゃ、なおそうとすれば、なおるでしょ」「だって住職。それを仏教で修行って言うんでしょ」
そして、著者は「まったくです」「私はそのとき初めて修行の意味を納得した気がしました。」と結んでします。
この禅問答のようなやりとりを皆さんは理解できますか?
小生には何だかよく分からないのですが、続きがありました。
その修行の方法を述べているのですが、それは一言でいえば「心の掘り起こし(分析)」とそれに基づいた生き方が大事だと言いたいようです。
でも、そういうことをしなくても、「なんのこだわりもなく、好きなこと、やるべきことをしていて、その言動が人を傷つけることなく、人の心に安らぎと勇気を与えてくれる人、そういう素朴な人に出会うと、私はその皺や瞳の中に「深般若」を感じることがあるのです。」とも言ってます。
小生のような凡人は、修行をしないと「彼岸に到るための智慧」は身につきませんよ、ということでしょうか。
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