昨日、ホームページの掲示板を見ましたら、大変嬉しいお便りをいただきました。
パリから行く小さな旅に関するものですが、こんなに丁寧な、そして暖かいお便りに心から感謝したいと思います。
人間は、心にホコリがたまると、ろくなことは考えないようです。誰も見てくれない!などと思い、ホームページの更新をさぼる、という心もきっとホコリがたまってきた証拠なのかも知れませんね。どうやら、名取芳彦(ほうげん)さんがいう、見えるものだけにこだわらない「般若」の智慧が大事なようです。
私のこころは
こんぺいとうよ
小さい
おまけに
とげがある
という言葉で始まる芳彦さんの般若心経第3章から「亡き人の”今”を思うことの”よろこび”」の一節をお伝えします。
般若心経では、5蘊(色受想行識)が空なのだから、こだわるなという意味で、おのおのに「無」をつけて説明するそうです。
色(物体)も固有の実体はない。
受(感覚器官)も人や場所、時代によって一定ではない。
想(想像)も色々であり、行(心の作用)も一定していない。
識(意識)も刻一刻と変化してやまないのだ。
そのことをわからずに「これはこういうものだ」とこだわり過ぎると、不安や、悩みや、怒りの原因になってしまうというのです。
その意味では、小生のホームページを見ていただく方が少なくても、それを嘆く必要は全くないのだと思います。「見てくれている方が少しでもいればそれでよい」と、こだわりすぎないことが大切なのでしょうね。
ここのところを芳彦さんは、「法事のうれしい効用」と「亡き人の居どころ」を例に「死んでしまえば終わり」という行きづまる考え方ではなく、より大きな世界へ思いを馳せることの大切さを説いています。
小生は、法事の話も面白かったのですが、亡き人の居どころの最後の文章が大変印象的でした。
『ヘレン・ケラーは死について、こんな言葉を残したそうです。
「死ぬことは、ひとつの部屋から次の部屋に入っていくのと同じなのよ。でも、私には大きな違いがあるの。だって次の部屋では目がみえるんですもの。」
心温まる言葉ですが、日本でもお墓参りに行ったとき、お墓の中にいる人に向かって心の中で「お元気ですか」と言っている人は案外多い気がします。亡くなった人に「お元気ですか」は変ですが、見た目の死という現実にこだわらないその心情こそ「般若心経」に通じるものだと思うのです。』
という文章です。
小生などは、いつも「あの世などない、人間、死んでしまえばお終い!」という考えを強く持っていますが、そのくせ、かみさんにいわれるままに母の祥月命日には、お墓参りを欠かしたことがありません。
そして、芳彦さんがいうように母に向かって「mugikoとうまくやっているよ」とか「姉の子どものA子が結婚したよ」などと話かけながら線香をあげています。
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