3日に小生の姉の夫が肝臓癌のため亡くなりました。
一月前くらいに電話で話をしていた人が亡くなってしまったのですから、言葉を失ってしまいます。
義兄は、もともと身体が丈夫な人で、医者にもあまりかかったことがない、ということでした。
先月の半ばに肝臓癌だとわかったそうですが、その時の医者の見立ては「半年」だったそうです。年齢が88才でしたから手術は無理、という話を聞いていました。
それでも、できるだけの療養をすれば、今年いっぱいぐらいは・・・と思っていたものですから、驚いてしまいました。
義兄が亡くなった3日、小生は午前中、スポーツジムにいっていて、12時くらいに家に帰ったのですが、かみさんが青い顔して「お姉さんから、夫の様子が変だ!という電話があった。」「すぐに行きます。」という返事をした、というのです。
慌てて車を飛ばして姉の家に向かったのですが、義兄は1時間くらい前に医者が来て注射をして落ち着いたようで、酸素吸入器で呼吸をしていまいした。
姉や、かみさんが浮腫んだ手足をさすって、また、水をガーゼに含ませてやりますと、うまそうに二口「すすった」のです。
そして、目を閉じて寝たようでしたので、私たちも隣の部屋で休むことにしたのです。
小生は、時々、義兄の方を見ていて「呼吸」している様子がわかりましたので、「今夜が峠かな?」などと考えながら、義兄のここのところの様子などについて話し合っていたのです。
その時間が30分くらいだったでしょうか?また様子を見るように目を義兄の方に向けましたら、酸素吸入器がついているのに、呼吸をしていないように見えたのです。
この僅かな時間に義兄は亡くなってしまったのです。
人の一生とは何なのでしょうか?
小生などにその答を見つけることはできませんが、小生が亡くなるときには、かみさんに「面白かったよ、色々有り難う」という言葉を残したいな!と思いました。
五木寛之さんは、人間の覚悟という本の最後で次のように述べています。
「・・・人は混沌の中で生きている、すきっりと脱出する方法などないのだ、そう考えるようになりました。
それでも、どんなに雑事に追われ、何もなしえず死んでいくだとしても、大河の中の一滴なのだとしても、人が生きることには壮大な営みがある。
ブッダが「天上天下唯我独尊」と言ったように、自分は誰も代わることができないたった一人の存在だから尊いのです。
そのことは、上り坂の時代でも、下り坂の時代でも変わりません。この先が、「地獄」であっても、極楽であっても、です。
生きることの大変さと儚さを胸に、この一日一日を感謝して生きていくしかない。
そう覚悟しているのです。」
と結んでいます。
小生などは、自分がしてきたことは、世のため人のため役にたってきたのか?という強い思いを持っているのですが、「雑事に追われ、何もなしえず死んでいく」典型なのかも知れません。
それは、五木さんのような立派な「覚悟」ではなく、そのように流されていくしかない、と思うえるのです。
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