ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
『ホテル・カリフォルニアの殺人』(宝島社文庫)発売中です!

景山民夫『遠い海から来たCOO』

2022-11-22 23:15:44 | 小説



今回は、小説記事です。

先日モダン・フォーク・フェローズに作家の景山民夫さんが在籍していたという話を書きました。
そこでも書いたとおり、この方は『遠い海から来たCOO』という作品で直木賞を受賞しておられます。

話のついでなので、この小説のことを書いておこうかと思いました。


発表されたのは、1980年代後半。

景山さんの代表作といえるでしょう。

ストーリーは、太古のプレシオサウルスが実は生存していて、その子どもが南の島で暮らす少年に拾われて育てられるというもの。
それだけならほのぼのとした話ですが、そこに某国の軍事機密がからんできて、中盤からは国際謀略サスペンス的な色彩を帯びてきます。ネタバレを避けるために詳細は伏せますが、物語としては目指すべきゴールにきれいに着陸しているという印象です。そこから導き出されるテーマは、たとえばその当時のゴジラシリーズ作品なんかと通じるところがあるかもしれません。

ほのぼのとした物語から国際謀略サスペンスへというコントラストが問題になってくるところではあって……某国の特殊部隊が島に潜入してきたりするんですが、そのあたりの描き方には直木賞の選考でもちょっと物言いがついたらしいです。それなりに強い味方がついているとはいえ、民間人が特殊部隊と戦って撃退できるわけがないとか……しかしまあ、そのへんは少年向けの物語として許容範囲であろうと私は思ってます。


この作品はアニメ映画化されているわけですが、その映画のほうもなかなか豪華です。

まず、脚本を手掛けているのが岡本喜八。

この方は、最近『ガッチャマン』の記事で名前が出てきました。ガッチャマン劇場版の総指揮ということで……当該記事でも書いたように、ガッチャマンに関しては名前を貸しただけで実際にはほとんどまったくタッチしていないらしいですが、COOのほうではちゃんと実際に脚本を書いているんでしょう。

それから、細田守監督がこの作品で作画監督補佐をつとめているんだそうです。
この頃はまだ中堅ぐらいの感じだったんでしょうか。

そして、ジュリアン・レノンが音楽として参加しています。
いうまでもなく、ジョン・レノンの息子。この人は、作品のメインテーマを提供しました。

そして、エンディングテーマは、松任谷由実さんの「ずっとそばに」。
ただしこれは、この映画のために作られたというわけではありません。この映画が公開される数年前に発表されていた曲で、原田知世さんが『時をかける少女』のB面としてカバーしたりもしてました。



また、ウィキ情報によると、アニメ映画が制作される前に実写映画化も企画されていたといいます。

実写版では岡本喜八監督がメガホンをとり、平成ゴジラシリーズで知られる川北紘一さんが特撮を担当する予定になっていたとか。そして、作中に登場するプレシオサウルスのデザインを、西川伸司さんが手がけています。この西川さんという人は平成ゴジラシリーズで怪獣のデザインを多く手がけている人ですが、このCOOの企画の際に川北さんにゴジラの同人誌を渡したことがゴジラシリーズに参加するきっかけとなったのだそうで……そんなふうに考えると、『遠い海から来たCOO』という作品は日本特撮史上かなり重要な作品といえるのかもしれません。



宮沢賢治「烏の北斗七星」

2022-09-21 22:14:28 | 小説


今日9月21日は、賢治忌ということです。

昭和8年、宮沢賢治がこの世を去った日……ということで、今回は、宮沢賢治について書こうと思います。



唐突ですが、宮沢賢治と金子みすゞは、どこか似ていると思うのです。

どちらも、生前にはほとんど無名だった詩人。
そうなった要因は、両者の共通点と、その時代背景があると私は考えています。そのあたりについて、ちょっと思うところを書いてみようと思います。


共通点の一つは、相対主義。

たとえば、有名な「注文の多い料理店」。
この作品においては、主と客、食うものと食われるものの関係が反転します。
それは、「向こうがわから見たらどうなのか」ということなのです。
人間はほかの生物を食うことで生存している。それを食われる側からみたらどうなのか……このモチーフは、金子みすゞの「大漁」の詩に重なるところがあるでしょう。このモチーフは、賢治の「よだかの星」などにも表現されています。

そして、イノセンス。

たとえば「貝の火」という短編は、非常にわかりやすい寓話といえるでしょう。

この作品では、善行を施した主人公の兎ホモイが「貝の火」という宝を手に入れます。手入れ次第でどんなに立派にもなるという宝珠ですが、一生満足にもっていることができたものはほとんどいない……ホモイも、やがて慢心し、増長していくことにより、宝珠の輝きは失われ、そのなかに燃えている炎はくすんでいってしまうのです。

僭越ではありますが、この作品は私が先日このブログに掲載した掌編「夏祭り」のテーマと通ずるものがあると思います。
ただ、一応申し上げておくと、私はこの作品をパクったわけではありません。
実は、私がこの「貝の火」という短編を読んだのはつい数日前のこと。賢治について何か書いてみるかということで全集の中からいくつか拾い読みしているときに、たまたま出会ったのです。つまりは、イノセンスとその喪失というテーマを共有しているということなのです。とりあえず、そういうことにしておいていただきたい。


それはさておき……記事のタイトルに掲げた「烏の北斗七星」です。

これも、全集の中から今回初読の作品。
あまり有名でない作品を取り上げようということで、これを選びました。相対主義とイノセンスということがよく表れていて、また、今の世界情勢に照らしてタイムリーでもあろうと思います。

描かれるのは、烏の戦い。
主人公である烏の大尉は、敵対している山烏との戦いに臨みますが、その敵を心底から憎むことができません。
結果としては、山烏と戦って相手を倒すわけなんですが……その戦功によって少佐となった烏は、北斗七星(烏たちのあいだでは「マヂエル」と呼ばれている)にむかってこう祈ります。


あゝ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません。


読者が束の間当惑してしまうほどのピュア……
この一節こそが、宮沢賢治が生前評価を受けなかった理由をもっともはっきり表しているように思われます。
ここからわかるように、宮沢賢治の作品世界は、富国強兵・植民地主義という思想とは相いれないわけです。
そしてそれが、金子みすゞともつながってくることになるでしょう。
「向こう側からみたらどうなのか」という視点は、富国強兵・植民地主義――つまりは帝国主義に対する根源的な批判を投げかけます。
それが、大日本帝国には受け入れられないものだった……宮沢賢治や金子みすゞが生前にほとんど評価を受けなかったのは、そういうこともあるんじゃないでしょうか。

最後に、この作品の朗読がYoutubeにあったので、リンクさせておきます。


【朗読】宮沢賢治「烏の北斗七星」

サムネ画面に、先に引用した部分が書かれています。
朗読動画はいくつかありますが、同じようになっているものが他にもありました。やはり、この一節が本作のハイライトということでしょう。



谷崎潤一郎「白昼鬼語」

2022-07-30 21:06:01 | 小説


今日7月30日は、「谷崎忌」。

谷崎潤一郎の命日……ということで、今回は小説記事として谷崎潤一郎について書こうと思います。

谷崎といえば、耽美派の筆頭というふうにいわれるわけですが、ミステリー風味の作品をいくつか書いてもいます。で、そういう傾向の作品を集めた『谷崎潤一郎犯罪小説集』というものがありました。


小説カテゴリ記事では、だいぶ前に坂口安吾の推理小説論というのを紹介しましたが、そこで安吾も言及しているように、案外昭和初期ぐらいの作家はミステリーっぽいものを書いている人が少なくないようです。谷崎潤一郎や佐藤春夫といった人たちもミステリー的な作品を書いていて、それらは安吾にも影響を与えたといいます。

安吾の場合は“ブンガク”的要素を完全に切り離すことで、むしろ本職の推理作家以上の純度で純・推理小説を書いた……と、このブログで私は評しました。
では、谷崎の場合はどうか。
彼の場合は、あくまでも自身のホームグラウンドである耽美主義文学の方向からアプローチしているように思われます。この小説集に収められている一編目「柳湯の事件」がまさにそうでしょう。ここに描出されているのは、まさに谷崎の世界です。
ただそれゆえに、“推理小説”では決してありません。
書く側にも、読者の探偵小説的興味を満足させようという意図はないでしょう。もしこの事件がミステリー的に解決されていたならミステリー史上に残る傑作となったことは疑いありませんが、残念ながらそういう話ではないのです。
ほかの三篇もおおむねそんな感じで、謎が提示されてそれを解決するという筋立てには必ずしもなっていません。そうであるがゆえに、逆に推理小説としてみるとちょっとひねりのある作品というふうに見える部分もあり……案外新鮮な感覚を楽しめるかもしれません。

感覚としては、江戸川乱歩に近いものを感じます。
妖艶・耽美・猟奇……しかし、その奥底にひそむ冷徹な理性。これはまさに、乱歩の世界でしょう。谷崎は乱歩にも大きな影響を与えているといいますが、なるほどそれもうなずけます。


「白昼鬼語」は、この短編集の中で最長の作品です。

これはまさに、乱歩の世界と私には思えました。乱歩の作品を、もう少しミステリー性を薄めて耽美主義文学のほうに寄せたというか……黒蜥蜴をほうふつとさせる女賊や、節穴から室内をのぞきこむという窃視趣味、そして、ここでは探偵小説ふうの推理も展開されます。ポーの「黄金虫」をもとにした有名な暗号解読なんかが出てきますが、乱歩からさらにポーに踏み込んでいるわけです。
物語の結末部分でも、乱歩がよく使った手法が用いられています。それは乱歩が自身の悪癖とみなしていたものなのですが……この作品においては、むしろそれが深い余韻を生み出しているようにも感じられます。乱歩がこの手法を使うとき、それは耽美主義の暴走を理性が押しとどめたというイメージですが、この作品においては逆に、この結末によって耽美主義が理性の世界を浸食しているように思われるのです。

めくるめく狂気の美――その一端が表れた箇所を、以下に引用してみます。
(私の読んだ版は現代仮名遣いですが、そっちのほうが雰囲気が出るんじゃないかということで旧仮名遣いに変換してみました)

…昨夜節穴から覗き込んだ室内の様子は、たしかに殺人の光景でありながら、それが一向物凄い 印象や忌まはしい記憶を留めてはゐない。其処には人が殺されてゐたにも拘らず、一滴の血も 流れてはゐず、一度の格闘も演ぜられず、微かな呻き声すらも聞えたのではない。その犯罪はひそやかになまめかしく、まるで恋の睦言のやうに優しく成し遂げられたのだ。僕は少しも寝覚めの悪い心地がしないで却つて反対に、眩い明るい、極彩色の絵のやうにチラチラした綺麗なものを、ぢつと視詰めてゐたやう な気持ちがする。恐ろしい物はすべて美しい、悪魔は神様と同じやうに荘厳な姿を持つてゐると云つた彼女の言葉は、単にあの宝玉に似た色を湛へた薬液の形容ばかりでなく、彼女自身をも形容してゐる。あの女こそ生きた探偵小説のヒロインであり、真に悪魔の化身であるやうに感ぜられる。あの女こそ、長い間僕の頭の中の妄想の世界に巣を喰つてゐた鬼なのだ。僕の絶え間なく恋ひ焦れてゐた幻が、かりにこの世に姿を現はして、僕の孤独を慰めてくれるのではないだらうかと、云ふやうにさへ思はれてならない。あの女は僕のために、結局僕と出で会ふために、この世に存在してゐるのではないだらうか。

実際、このせりふを語る人物は「生きた探偵小説のヒロイン」に近づいていき、そこから痴人の愛みたいなことになっていくわけです。
痴人の愛に展開していくのが、純粋にミステリーではないところであり、逆にミステリーとしてみると斬新な部分ということになるでしょう。その倒錯……江戸川乱歩という大河に流れ込んでいく一つの支流を、たしかにここに見て取れることができるのです。



フョードル・ドストエフスキー『罪と罰』

2022-03-06 16:36:59 | 小説



最近このブログでは、ロシアによるウクライナ侵攻に関する記事を連投しています。

前回は日本漫画協会の声明を紹介しましたが……今回は文学記事として。

取り上げるのは、ロシア文学の巨人ドストエフスキーです。



今回のウクライナ侵攻で、ドストエフスキーの代表作の一つ『罪と罰』がクローズアップされています。

たとえば、イタリアの大学で『罪と罰』の講義を削除するというような話がありました。
ミラノのビコッカ大学というところで、そういう方針が決められたとかで……ただこれは、担当者が強く反論したために方針は撤回され開講されることになったそうです。
まあ、さすがに『罪と罰』の講義を削除というのは行き過ぎでしょう。
先日の記事では、ロシアが軍事行動を続ける限りありとあらゆる制裁を受けるのはやむをえないと書きましたが、ロシアの文化を否定するべきではありません。

そしてもう一件、ウクライナ侵攻をめぐるニュースで『罪と罰』のタイトルを目にすることがありました。
それは、国連総会における一幕。各国の代表がスピーチしていくなかで、ポーランドの代表が『罪と罰』になぞらえてロシアを批判しました。
「ラスコーリニコフは、自分を特別な存在だと考えて罪を犯し、そしてその罪自体から罰を受けたのだ」と。

これは、『罪と罰』の内容に踏み込んだ言説といえるでしょう。
そう。まさにこの作品は、プーチン大統領にむけられたような内容となっているのです。


一応説明しておくと、『罪と罰』は犯罪小説です。
主人公のラスコーリニコフが、金貸しの老女を殺害するのですが……この殺人は、“踏み越える存在”はありうるかという思考実験でした。
つまり、偉大であるために他者を犠牲にすることが許される存在はありうるのか――ということです。自分がそのような存在であるかということを試すために、ラスコーリニコフは殺人を犯しました。
その第5部。理解者であるソーニャに己の罪を告白するシーンで、ラスコーリニコフはこういいます。(以下、引用は亀山郁夫訳・光文社古典新訳文庫版より)

今になってわかるんだ、ソーニャ、頭も心もつよくてしっかりした人間だけが、やつらの支配者になれるってことがさ! いろんなことを思いきってやれる人間だけが、やつらのあいだじゃ正しいってことになるんだよ。よりたくさんのものに唾を吐きかけられる人間だけが、やつらの立法者になれるんだ、だれよりも正しいものは、だれよりもたくさんのことを思いきってやれる人間だけさ!

人間などシラミのようにつぶしてしまえる、そういう存在こそが、権力を持つ資格がある……ラスコーリニコフを捉えたのは、そんな思想です。権力は「身をかがめてそれを拾いあげようとする、勇気ある者だけに与えられる」のであり、彼にとっては、老女の殺害が「勇気をもって身をかがめること」だったのです。

ぼくは知る必要があったんだよ、一刻も早く知る必要があった。自分がほかのみんなと同じシラミか、それとも人間か? 自分に踏み越えることができるのか、できないのか? 身をかがめて拾い上げられるか、あげられないか? ふるえおののく虫けらか、それとも資格があるのか……

踏み越える存在はあるか――
この問いに対するドストエフスキーの答えはニェット(否)だったと私は思います。

ラスコーリニコフは、「ぼくはほんとうにひと思いに自分を殺してしまった」といいます。
できるかどうかを思い悩み、苦しんでいる時点で、自分は“踏み越える存在”ではない。一匹のシラミにすぎない――彼がたどりついたのは、そういう結論でした。

そこには、ドストエフスキー流の実存主義があり……案外それは日本に古くからある思想と通底するものがあるんじゃないかと私は思ってます。
日本の民族的ルーツの一つはロシア東部にあるらしいですが、そういったことも関係しているかもしれません。

そのへんについて話すと長くなりますが……ここで、ドストエフスキーのもう一つの代表作『カラマーゾフの兄弟』の一節を引用しましょう。四兄弟の次男イワン・カラマーゾフが弟のアリョーシャに対して語るせりふです。

もしも子どもたちの苦しみがだ、真理をあがなうのに不可欠な苦しみの総額の補充に当てられるんだったら、おれは前もって言っておく。たとえどんな真理だろうが、そんな犠牲には値しないとな。

プーチン大統領がロシア文化から学ぶべきだったのは、まさにここでしょう。
子どもたちの苦しみを糧として得られる真理などない。その先に、誇るべき国家の姿などありえないのです。

『罪と罰』のラスコーリニコフは、“踏み越える存在”の例としてナポレオンを挙げていますが、そのナポレオンは、ほかならぬロシアへの遠征に失敗して転落していきました。いまプーチン大統領が歩んでいるのは、まさにその道ではないでしょうか。

プーチン大統領に申し上げたいのは、あなたは“踏み越える人間”などではないということです。
あなたも、所詮はただのシラミです。
しかし、せめて、己の犯した罪と、それによって流れた血のために、思い悩み苦しむシラミであってほしい。そうであれば、まだ救いがある。
では、どうすれば救われるのか……最後に、ソーニャがラスコーリニコフに与えた助言を紹介しておきましょう。

いますぐ、いますぐ、十字路に行って、そこに立つの。そこにまずひざまずいて、あなたが汚した大地にキスをするの。それから、世界じゅうに向かって、四方にお辞儀して、みんなに聞こえるように「わたしは人殺しです!」って、こう言うの。そうすれば、神さまがもういちどあなたに命を授けてくださる。




坂口安吾『不連続殺人事件』

2022-02-17 16:35:22 | 小説
今日は2月17日。

安吾忌です。

1955年の今日、作家の坂口安吾がこの世を去りました。

…というわけで、今日は坂口安吾について書こうと思います。

最近このブログの小説カテゴリーでは日本の文豪的な作家を扱っていて、前回登場したのは太宰治。安吾は、その太宰とともにいわゆる“無頼派”の双璧をなす作家であり、そこからのつながりということでもあります。

このブログでは、芥川龍之介も太宰治も三島由紀夫もロックだといってきましたが……もちろん坂口安吾もロックです。
安吾なんか、もう誰がどうみてもロックでしょう。
「日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ」などというのは、パンクそのものです。


さて、坂口安吾といえば、まず「堕落論」が有名でしょう。
先に引用したのも、「堕落論」の一節。
その「堕落論」を筆頭に、安吾は小説よりもむしろエッセイや評論のほうが注目されがちな印象もあります。
評論の対象は、文学や時事ばかりでなく、興味を持っていた囲碁など多岐にわたり……その一環としてか、安吾は推理小説に関する論考もいくつか発表しています。
坂口安吾と推理小説というのはあまり結びつかいないかもしれませんが、それらの論考を読むと、相当に内外のミステリーを読み込んでいることがわかります。
アガサ・クリスティを第一にあげ、日本のミステリー作家としては横溝正史を高く評価。横溝の怪奇趣味を批判しているところは私としては賛同しかねますが、しかしそこは、怪奇趣味・草双紙趣味を邪魔なものとみてなお高評価される横溝のすごさということなんでしょう。
怪奇趣味を批判する安吾は、ミステリー作品にしばしばみられるペダントリーにも批判的です。
ゆえに、エラリー・クイーンやヴァン・ダインを一定程度評価しつつも、その部分がマイナス点となり、あまりそういうところがないクリスティがよりすぐれているという評価にもつながっているようです。
まあ、そこはよくわかります。私見ですが、クイーンやヴァン・ダインにみられるペダントリーは、文学コンプレックスの裏返しなんじゃないでしょうか。文学界においては、ミステリーということでどこか一段低くみられるようなところがあるのは否定できず……その劣等感から、やたらと古典文学や美術への造詣といったことを前面に押し出そうとするのではないかと。

そこへいくと、安吾の場合はそういう劣等感とは無縁です。
もともと純文学方面の作家であり、そんな背伸びをする必要がなく、またそういうつまらぬ見栄を張ろうとするような人物でもありません。
なので、余計なウンチクを弄したりすることなく純粋に推理ゲームとしてのミステリーを書くことができるというわけでしょう。
そうして書かれた長編が、『不連続殺人事件』ということになります。



多くのミステリー作家と同様、安吾も自作に登場させる名探偵を創作しました。ドイルにとってのホームズ、クリスティにとってのポワロ……安吾探偵小説においては、巨勢博士という人物がそれにあたります。
先述したように、そこで描かれるのは純粋に推理ゲーム。怪奇趣味も、ペダントリーもまったくありません。推理小説の古式ゆかしい趣向として“読者への挑戦”というのがありますが、この作品では、雑誌連載しながらその読者から犯人あてを募るというような企画もやっていました。結果、ほぼ完全に正解の回答が4件よせられたということです。

で、そのミステリーとしてのできはどうなのか。

人様の作品についてあれだけいったからには自分は相当なものを書いたんだろうな……とちょっと意地悪な目線で読んでしまうんですが、これがなかなか堂に入ったものだと感じました。
江戸川乱歩や松本清張も高く評価したということです。
登場人物が多く関係も複雑なんですが、その人物たちの思考や行動をからませつつ明晰なロジックで謎を解明していく手つきには、素直に感心させられました。犯人あて募集に正解が複数寄せられたのも、論理をつきつめていけばきちんと犯人がわかるようになっているというフェアネスへのこだわりゆえでしょう。ほかならぬ安吾自身がそう評しているのは、決してただの負け惜しみではありません。

そこには、安吾独特の感覚が作用しているように思われます。

ここでちょっと大所高所からの話をすると、文学というのはそのときどきの時代にあった思想を背景としている部分があります。
なにも文学にかぎった話ではないでしょうが……たとえば、リアリズム/自然主義という思潮は、“大衆”の発達と民主主義の普及に沿うかたちで発生したものであり、象徴主義はその反動としての帝政や復古王政に対応しているといった具合に。
その観点でみると、ミステリーは実証主義を思想的土台としている、というのが私の文学史観です。19世紀は、実証主義の時代。ミステリーという形式が19世紀半ばごろから勃興してくるのは、まさに実証主義の隆盛と軌を一にしているのです。かの夢野久作『ドグラ・マグラ』において「近代文学の神経中枢とも見るべき探偵小説を読まない奴はモダンたあ云えないぜ」と書かれているのは、まさにこの意味においてでしょう。

で、その実証主義というあまり文学とは親和性の高くない思想を文学に持ち込むことができる作家となったら……これはもう坂口安吾が第一ということになります。

いや……実証主義を文学に持ち込むというのは正確ではありません。
むしろ、両者をはっきりと分離させた。クイーンやヴァン・ダインの陥った罠にはまることなく……逆説ですが、探偵小説専門の作家でないからこそ、余計な要素を排除した純・探偵小説が書けた。
すなわち、旧来の価値観から自由で、機能美を重視する、そんな安吾だからこそ、“ブンガク”ということにとられることなく思いっきり実証主義の方向に振り切って書くことができたのではないか。そんなふうに思われるのです。
“ブンガク”性とミステリーとを完全に切り離していることは、この『不連続殺人事件』のなかにおいて、主人公・矢代の口から語られます。
作家である矢代は、探偵役の巨勢博士を評してこう言います。

  我々文学者にとって人間は不可決なもの、人間の心理の迷路は永遠に無限の錯雑に終るべきもので、だから文学も在りうるのだが、奴にとっての人間の心は常にハッキリ割り切られる。

巨勢はもともと文士志望で矢代に弟子入りしてきた人物ですが、いっこうに文才がなく「小説がヘタクソだから、犯罪がわかるんでさア」と嘯きます。
矢代にいわせれば、「彼の人間観察は犯罪心理という低い線で停止して、その線から先の無限の迷路へさまようことがないように組み立てられているらしい」。ゆえに巨勢博士は、「探偵の天才だが、全然文学のオンチ」ということになるのです。

かように、ブンガクとミステリーとは、本質的に相いれない。
それは、はっきりと成文化できるものだけを対象とする実証主義と、成文化できない領域を扱う文学との間には超えられない壁があるためです。

その点を踏まえて純粋にミステリーという方向性を追究しているのが、この『不連続殺人事件』の強みでしょう。
それゆえに、本作はミステリー史上に残る一作なのです。