ロック探偵のMY GENERATION

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相沢事件

2023-08-15 22:25:09 | 日記


今日は8月15日。
終戦記念日です。

このブログではこうした節目の日に近現代史に関する記事を書いていますが、今年もそれを踏襲していきましょう。

前回の近現代史記事では、昭和9年に起きた士官学校事件というものについて書きました。
いわゆる皇道派と統制派の対立を激化させるきっかけとなった事件であり、その対立のすえに、翌昭和10年に起きたのが“相沢事件”。ということで、今回はこの相沢事件について書こうと思います。



相沢事件は、直接の事実としては、相沢三郎中佐が永田鉄山軍務局長を殺害したという事件です。

先述したとおり、その背景にはいわゆる皇道派と統制派の対立があります。

相沢三郎は皇道派側の人物であり、いっぽうの永田は統制派の大物と見られていました。
統制派と皇道派の対立というのは満州事変あたりからずっとあるわけですが、その派閥抗争において統制派が皇道派を抑え込みつつあった。それに対して、皇道派側が暴発した事件といえるでしょう。
直接には、前回の近現代史記事で書いた士官学校事件がきっかけになりました。
当該記事でも書いたように、士官学校事件によって皇道派と統制派の対立は激化。皇道派は、士官学校事件によって磯部浅一や村中孝次らが停職となったことを統制派の陰謀として逆恨みし、いっぽう統制派の側は、皇道派の領袖とみられていた真崎甚三郎の排除に動き出します。その結果、真崎は教育総監というポストから更迭されてしまうのです。

この真崎甚三郎という人は、いろんな人に嫌われていたようです。

一つには皇道派の領袖として統制派から嫌われていたということですが、そればかりでなく政治家たちからも嫌われ、さらには、ほかならぬ昭和天皇をはじめ皇族方面からも煙たがられていたといいます。
皇道派と統制派の派閥抗争が激化してくると、政治家や皇族からも嫌われていたということが、真崎にとってはきわめて不利な要素となりました。

これが、皇道派の側からすれば“君側の奸”である統制派の連中があることないこと天皇に吹き込んでいるということになります。
そこで、真崎を陥れて更迭に追いやった皇道派の大物を斬ってやろうということで、相沢事件となるわけです。

軍内部における派閥抗争の果てに起きたテロ事件……単純にいってしまえば、そういうことになるでしょう。
しかしながら、テロというものは、しばしば起した側に不利に働きます。相沢事件の場合もそうで、この実力行使が皇道派の立場をますます悪化させ、窮地に立たされた挙句に二.二六事件という最後の大暴走に突き進むステップとなりました。



真崎甚三郎という人に関しては、あながち言っていることは間違ってないかもしれないという部分もあります。
まあ、皇道派と対立している統制派の側も考え方や行動がめちゃくちゃなので、それと対立し批判するのがまともに見えるというだけの話かもしれませんが……
皇道派は天皇を奉じる反共保守という性格が強く、それもあってかソ連を主要な敵とみなしていました。なんならソ連に先制攻撃をしかけようという発想です。
対する皇道派は、まず中国を相手にしなければならないと考えます。中国に大打撃を与えて日本に敵対しようという意思を挫いておかなければならないというわけです。そうしておかなければ、ソ連と戦争になったときに日本の敵として参戦してくるおそれがある……と。
実際の歴史の動きは、統制派の構想に沿って進んでいきます。
しかしながら、「中国に大打撃を与えることで日本に抵抗する意思を挫く」という彼らの発想は、甘い見通しだったといわざるをえません。現実には、いくら軍事資源をつぎ込んでも中国側は抗戦姿勢を崩さず、米英からの支援を受けてしぶとく戦い続けます。ちょうど、いまのウクライナ戦争のようになってしまうわけです。こうして統制派の目論見は崩れ、最終的に対米開戦にまで突き進み、大陸の戦線は膠着、対米戦争も絶望的な状態に陥ったところで対ソ戦が始まってしまうという、最悪の事態を迎えることになります。

すなわち、統制派の描いた戦略は、その後の実際の歴史を見るかぎり、致命的に間違っていたといっていいでしょう。
それがあるので、大陸での戦線拡大に懸念を示していた真崎甚三郎がまともに見えたりするときもあります。

しかし、では皇道派の主張が正しいのかというと、そういう話でもないでしょう。
もし皇道派の戦略に従っていたとしたら……その場合、ソ連に対して先制攻撃をしかけていた可能性があり、それはそれで大変な事態になっていたかもしれません。

つまるところ、統制派の考えも、皇道派の考えも、どっちもどっちということになるわけです。
この歴史的経緯から得られる教訓は、自分から攻撃をしかけるという発想になっている時点でもうまずい、ということでしょう。敵国の領土に攻め込んで抗戦を継続できない状態にまで制圧するのが相当難しいということは、大昔からいわれていることです。それは中世でも、近代でも変わらない。したがって、うかつによその国に攻め込んだりすれば、泥沼に足を踏み入れてにっちもさっちもいかなくなる……21世紀においてもそれは変わらないということは、ウクライナ戦争で示されているでしょう。
敗戦からもう80年近くになるわけですが、ある意味当たり前といえば当たり前ともいえるこのことが、重要な教訓になってきているようにも思えます。