ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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『スケバン刑事』

2020-04-19 17:09:42 | 映画



今回は、映画記事です。

前回このカテゴリーでは『ねらわれた学園』について書きましたが……
じつは、『ねらわれた学園』は、以前からアマゾンプライムがサジェストしてくるので気になってました。
登録している方はご存知のとおり、アマゾンプライムは、これまでの視聴履歴をもとにしておすすめの作品をサジェストしてきます。つまり、『ねらわれた学園』がサジェストされたということは、その手の映画をよく観てるからということなわけです。

で、その一つが、たとえば映画『スケバン刑事』でしょう。

 

ということで、今回は、この『スケバン刑事』について書いてみようと思います。
系統的に似ているということでアマプラがサジェストしてくるわけですが、似ているのは単に学園が舞台であるとか女子高生が主人公であるということだけではありません。この映画を観ていると、『ねらわれた学園』と同様、なんだか現代の日本にむけたメッセージのように感じられるのです。

一応簡単に説明しておくと、『スケバン刑事』は80年代ごろにやっていたドラマ。
「刑事」の部分は「デカ」と読みます。スケバンというのは――これもいまの若い人にはわからないと思うので書いておきますが――女番長のことです。
原作は漫画で、以前紹介した『ピグマリオ』の作者である和田慎二先生の代表作です。
映画化作品はいくつかあるようですが、今回紹介するのはその最初のもの。南野陽子さんが演じる二代目麻宮サキが主人公です。和田慎二先生ご本人も、ゲストとしてちらっと登場しています。

YouTubeにアップされている動画を貼り付けておきましょう。
予告動画ですが、登録とか何かしたら本編も見られるんだと思います。

スケバン刑事

以下、ストーリーをかいつまんで説明しましょう。
(クライマックスの部分にまで踏み込んでいるので、観ていない方はご注意を)

スケバン刑事としての任務を解かれた二代目麻宮サキこと早乙女詩織は、ふつうの女の子としての生活を送ろうとしていましたが、街で遭遇した少年・萩原和夫(坂上忍)を助けたことから事件に巻き込まれます。
そしてその事件の背後には、おそろしい陰謀が渦巻いていたのです。
その舞台は、東京湾から2キロの海上に浮かぶ“地獄城”なる島。

この島には三晃学園という高校があり、そこでは軍隊式教育が施されているのです。

不良学生たちが矯正のために送り込まれていたということで、これは某ヨットスクールみたいなことでしょうか……時期的に考えて、おそらくそれがモデルになっているものと思われます。

三晃学園に送り込まれた学生たちは、銃を使用した戦闘訓練を受け、洗脳教育を施されています。その学則は、次のようなものです。

  正しい人間になります
  規律に絶対服従します
  自分では判断しません
  私は服部校長先生のしもべです

この軍国主義教育のもとに、服部校長(伊武雅刀)はクーデターを企てているのです。
さらに、彼のバックには政治家もついています。しかもそれは、「国家の中枢にいる人物」だというのです。

デフォルメされた表現ではありますが、滑稽なまでにデフォルメされた表現のなかに深いテーマが潜んでいるというのも、『ねらわれた学園』と共通するところでしょう。少なくとも私は、この三晃学園の描写をただの絵空事と一笑に付してしまうことができません。

服部は、かねてより真に国家を改革する夢に燃えていた……という人です。
彼は、“卒業”を迎えた生徒たちにむかって、次のように演説します。

  テロとクーデターの後に東京に戒厳令を施行して、この腐れきったいまの社会体制を根本的に覆すのだ!
  そして、真の理想国家を建設するのだ!

まるでヒットラーかムッソリーニかというところです。
そして、この服部校長のいうエリートたちは、高い戦闘能力をもった兵隊になっています。

この強大な敵を相手に、二代目麻宮サキは、従来の16倍の破壊力をもつ“究極のヨーヨー”を手に、ビー玉お京や三代目らとともに、敵の本拠地である地獄城に潜入。

その救出作戦の途上で、服部校長にむかって麻宮サキはこういいます。(※二代目麻宮サキは土佐出身なので土佐弁で話す)

  自分はいつも安全なところから人の犠牲だけを要求する
  一度でも自分自身で戦うたことがあるんか
  どうじゃ、卑怯者!

独裁者というもの一般に通用する痛烈な批判でしょう。
ただ、実際戦うとこの人は結構強いです。初戦では、武器であるヨーヨーを使えない状態で戦い、麻宮サキは敗北を喫します。

しかし、もちろんそれで終わりはしません。

いったん負けてからリベンジするのは、ヒーローものにお約束の展開。
そこからのあれこれを端折っていうと、とらわれたサキは危機一髪のところで脱出に成功し、当初の計画どおり学生たちの救出にむかいます。

  おまんら家に帰るがじゃ

牢獄の鍵を開けたサキは、学生たちに呼びかけます。

  帰ろう、帰るぞね

ここもまた、『ねらわれた学園』と重なってきます。
キーワードは「家に帰る」なのです。

しかし……この作品においては、事態はより深刻といえるかもしれません。

一部の生徒たちは、檻が開かれ逃げられるにもかかわらず、逃げようとしないのです。
家に帰ろうと呼びかけられても、彼らは気まずそうにうつむくばかりで、じっと動かずにいます。
洗脳教育の成果ということでしょう。洗脳がいきつくと、みずから奴隷の境遇に甘んじるようになってしまうのです。

  希望を忘れてしもうたんか!?

とサキは呼びかけますが、それでも彼らは動きません。
恐怖の支配によって、彼らは自由を与えられてもそれをつかもうとしないのです。日本という国に40年ほども生きていると、この描写が実に鋭く痛切に感じられます。

きわめつけは、廃人にされてしまった加藤喜久男です。
彼は、萩原和夫の友人で、ともに地獄城を脱走したのですが、追手にとらわれてしまったのでした。
その額のあたりには、手術痕があります。ロボトミーでしょうか。はっきりそうはいってませんが、何かしら脳をいじられているようなのです。
ロボトミーというのは、脳の前頭葉の一部を切除して人格を変えてしまう手術。
ロック界隈では、反逆精神を奪われ、無気力に生きていることの暗喩として使われます。まさにここでも、そういう意味合いでしょう。

 あの人たちは結局みんなをこうしたいのよ

と、喜久男の妹は訴えかけます。

 おしまいには、みんなお兄ちゃんみたいにされるのよ、いいの?

仲間の無残な姿を目の当たりにして、躊躇していた学生たちも脱出を決意。
こうして、学園にとらわれていた生徒たちはみな脱出し、麻宮サキは服部校長との決戦に挑むのです。強化されたヨーヨーも通じない金属ボディを持つ服部校長をどうやって倒すか……そこはネタバレになるので伏せておきましょう。これだけ映画の内容を書いといてなんですが、せめてそこだけでも。

それにしても……

こんなふうに過去の映画なんかをみていると、まるで現代の日本に向けられたメッセージのように思えることがしばしばあります。
このブログでは、何度もそういうことを書いてきました。
要は、かつての日本で「こんなふうになったらだめだ」と考えられていたような世の中に、いまの日本はなりつつあるんじゃないかということですね。
ただ、今回のコロナ禍で、強制的に変革を強いられてる気はします。
「規律に絶対服従します」「自分で判断しません」という“しもべ”的姿勢では、社会をきちんと守っていくことができない……そういうふうにだんだん意識が変わりつつあるんじゃないでしょうか。

劇中で、「こがいな平和な時代に、うちらムキになって、おかしいのう」という麻宮サキにむかって、ビー玉お京はこんなことをいいます。

 おかしかねえよ、今の時代、あたいらみたいなバカが少なすぎんのさ

それに対して、三人組のもう一人である雪乃はこう応じます。

 いまが平和な時代とは、本当は見せかけだけなのかもしれませんことよ

このメッセージを、深くかみしめたいと思います。
平穏な時代というのは実はみせかけで、何かのきっかけであっさり崩れ去ってしまうのでしかなかったのではないか……だとしたら、社会をほんとうに守れるのは、ちょっとムキになるぐらいの、人からバカにされるぐらいの、青臭い正義感なんじゃないでしょうか。




パトリシア・コーンウェル『死体農場』

2020-04-16 17:13:50 | 小説

 

パトリシア・コーンウェルの『死体農場』を読みました。

例によって、ミステリー・キャンペーンの一環です。
パトリシア・コーンウェルといえば、一時代を築いたサスペンス作家といっていいでしょう。これまでこのミステリーキャンペーンで名前が挙がってきた作家たちと比べると比較的時代が新しいですが、決してレジェンドたちに引けをとるものではありません。

タイトルになっている「死体農場」とは、法医学の実験施設。
いささかショッキングですが、人間の死体をさまざまな条件下において、損壊、腐敗がどのように進行するかを研究しています。たとえば、死体を平原に野ざらしにしておくと、どのような動物に食い荒らされ、どのくらいの時間をかけて白骨化していくかがわかる、というわけです。そういうものがアメリカに存在するというのは聞いたことがあったので、それに関する興味もあり、この作品をチョイスしてみました。

発表されたのは1994年。
読んでみると、いかにもその時代を映した作品だと思えました。

たとえば、小児性愛をはじめ、サイコパス的な要素。
あまり詳しく書くとネタバレになってしまうので書けませんが、犯人が犯行に至る動機にも、ある種の“心の闇”が作用しています。
その背景が、90年代という時代――『羊たちの沈黙』がヒットした時代――それは、以前書いた、人間が人間のなかにモンスターを見出す時代ということでしょう。アメリカでは70年代末ぐらいからそういう傾向があったと思いますが、それがじわじわと拡大してエンタメの世界を覆うようになっていったのが、90年代ぐらいなんじゃないでしょうか。

一応ストーリーをちょっと紹介しておきましょう。

メインとなるのは、ノースカロライナ州の田舎町ブラック・マウンテンで起きた殺人事件。
11歳の少女エミリー・スタイナーが何者かに殺害され、遺体は肉の一部を切り取られたうえで遺棄されるという事件が発生します。FBIの女性検屍官ケイ・スカーペッタがその謎を追いますが、その過程で捜査陣のなかからも死者が出て、さらに肉親の身にも危険が及び……といった話です。

ミステリー的な部分でいうと、指紋に関する推理がシンプルながらも斬新で感心させられました。
これも、指紋というミステリーではおなじみの素材がこんなふうに料理されうるのかと目からウロコです。
それも含めて、この小説では、警察の捜査にかんするディテールの書き込みがものすごい。主人公の専門である法医学の分野だけでなく、FBIが科学捜査を進めていくさまが詳しく描かれています。
これらの要素は、警察担当の新聞記者として働き、警察関連の機関で活動していたという経歴によって支えられているようです。シャープな文章もまた、ライターとしての仕事で培ったものでしょう。この検屍官シリーズは、現在に至るまでおよそ二十年にわたって書き続けられているということですが、それもうなずける一作でした。


Anthrax, Among the Living

2020-04-14 18:01:00 | 音楽批評



今回は、音楽記事です。

紹介するのは、Anthraxの Among the Living

先日、小説記事としてスティーヴン・キングの『ザ・スタンド』をとりあげましたが、そこからのつながりです。というのも、この曲は『ザ・スタンド』をモチーフにしてるのです。

 

アルバムのタイトルチューンでもあり、そのアルバムジャケット中央に描かれている人物は、『ザ・スタンド』に登場する悪の世界のボス“ウォーキング・デュード(歩く男)”がモデルともいわれています。そうではないという説もあるようですが、この点に関してドラムのチャーリー・ベナンテは「俺たちの中にどれだけの邪悪がひそんでいるか」を表しているのだといっています。


ここから、アンスラックスというバンドについてちょっと書いておきましょう。
といっても、私はあまりメタル方面には詳しくないので、ウィキからの受け売りになる部分が多いんですが……

アンスラックスは、いわゆるスラッシュメタルを代表するバンドの一つ。
メタリカ、メガデス、スレイヤーとあわせて、ビッグ4と呼ばれています。日本語で言うなら、スラッシュメタル四天王の一角とでもいったところでしょうか。

バンド名のAnthrax は、「炭疽菌」の意味。
炭疽菌というのはなかなか危険な細菌で、ときどきバイオテロで使用が試みられたりもするようで……それをバンド名にするというも、いかにもスラッシュメタルな感じです。

そのアンスラックスが1987年に発表したサードアルバムが、『アマング・ザ・リビング』。

このアルバムには、Indian という曲も収録されていますが、これはその時のボーカルだったジョーイ・ベラドナがアメリカ先住民にルーツを持っていることから。それで先住民音楽の要素を取り入れたりもしていますが……そこにとどまらず、アンスラックスはメタルの枠をこえたさまざまな音楽を自身の音楽に取り入れてきました。
たとえば、パブリック・エネミーなどと共同作業を行い、ラップを取り入れるなどといったことも試みていて、アンスラックスをミクスチャーの祖と見るむきもあるようです。ビッグ4のなかではおそらくもっとも知名度が低いバンドではありますが、そういう意味ではロック史において重要な存在かもしれません。


音楽的なこととは別に、その「炭疽菌」というバンド名で物議をかもしたことがありました。

2001年、アメリカ同時多発テロの際に、アメリカで炭疽菌テロ事件というのがあって、そのときにバンド名を変えたほうがいいんじゃないかという話になったそうです。

実際バンド名を変更することはありませんでしたが、この件は考えさせられます。

アンスラックスにかぎらず、メタル系のバンドは邪悪なイメージを打ち出すことが多いです。それはある種プロレスのヒールみたいなことなんだと思いますが……そのヒールが、現実の邪悪とどう向き合うかという問題ですね。
メタルの例ではありませんが、同時多発テロのときには Massive Attack というグループが名前をMassive に変更するということがありました。この話、以前どこかで一度書いたような気もしますが……これは、attack という単語が時節柄よくないということでそうなったわけです。
こういった例をみていると、ヒールがどう扱われるかということで、現実世界の平和が測られるんじゃないかとも思えます。
世の中が平和だからこそヒールが希求されるわけであり……逆にいえば、ヒールが虐げられるときというのは、世の中が平穏を失いつつあるときだろうと。
で、今がまさにそういうときなんじゃないかという気がしています。
先述した Indians という曲の冒頭部分には、「人は、他人の戦いのことになると、黒か白かですべてを見てしまう」という歌詞があります。ヒールの存在は、そんな単純化されたものの見方に疑問を投げかけるものなのかもしれません。




P!nk - Dear Mr. President

2020-04-12 15:52:09 | 音楽批評



安倍総理のツイートが炎上しているそうです。

星野源さんの提供したコラボ用素材で、家で過ごしましょうという内容をツイートしたところ、炎上した模様。犬とたわむれたり、本を読んだりしてくつろいでいる姿の映像になってますが、この状況でそんな余裕で生活できる人ばかりでもないというツッコミが多数入っています。外出自粛を要請されている週末とはいえ、生活のために働かなければならない人たちが多数いる。あるいは、仕事がなくなったことで生活の見通しが立たない人がいる。そのなかで、総理大臣は優雅に王侯暮らしか――まあ、特に深く考えずにやっちゃったんでしょうが、いま市井の人たちが置かれている状況からすれば、そういう批判が出るのは当然ともいえるでしょう。

たとえば、このブログで何度か名前が出てきた映画評論家の町山智浩さんは、次のようにリプしています。

 総理大臣さま、国民を自宅に篭らせるために総理がすべきことは、自分が自宅で優雅にくつろぐビデオを国民に見せることではなく、給付や補償で国民の生活を守り、安心して家にいられるようにすることではないですか?

じつに、もっともなことです。
この一連の動きをみていて、私は、P!NKのDear Mr. President という歌を思い出しました。

 

これはブッシュJr.大統領を批判する歌ですが、なんだか今の日本にもあてはまるような気がするのです。その歌詞を以下に紹介しましょう(※具体的にブッシュJr大統領について書いている部分を一部省略してます。今回の論旨にはあまり関係ないので)


  親愛なる大統領

  ちょっと私と話しましょう
  ただの二人の人間として
  あなたが私よりも偉いなんてことはないつもりで
  正直に話し合えるのなら、あなたに尋ねたいことがあるの

  路上のホームレスたちを眺めて、あなたは何を感じるの?
  夜、眠りにつく前にあなたはなにを祈るの?
  鏡をのぞきこんで何を感じる?
  誇りをもてるの?

  ほかのみんなが泣いているときにあなたはどんなふうに眠るの?
  さよならをいうこともできずに子どもと別れなければならない母親たちがいるときに
  あなたはどんな夢を見るの?
  どうやって胸を張って歩けるの?
  私の目をみられる?
  そして、なぜだか話すことができる?

  親愛なる大統領
  あなたはさびしい子どもだった?
  あなたはいま、さびしい子どもなの?
  置き去りにされる子どもはいないなんて
  どの口で言うの?
  私たちはばかじゃないし、盲目でもない
  みんな、あなたの作った監獄のなかで座っているのよ
  あなたが地獄への道を舗装しているそのあいだ

  つらい仕事の話をさせて
  小さな子供を抱えた最低賃金での労働
  爆弾で吹き飛ばされた家を再建すること
  段ボールでベッドをつくること
  つらい仕事
  あなたは何もしらない

  親愛なる大統領
  あなたは決して私と話なんかしない
  そうでしょ?


P!NKという人は、本来政治的なメッセージを表に出すタイプのアーティストではなかったようですが、ブッシュ政権が引き起こしたイラク戦争やその後の動きをみていて、よほど腹に据えかねたようです。それで、こんな歌を歌いました。
YouTubeの公式チャンネルにライブ動画があったので、それも貼り付けておきましょう。

P!nk - Dear Mr. President (from Live from Wembley Arena, London, England)

後ろのスクリーンには、ブッシュJr大統領が映し出されています。
そして、彼の引き起こした戦争によって苦しむ子どもたちや、死者の亡骸をおさめた棺、あるいは、貧困にあえぐ人々。
国民の生活とあまりにも乖離したところで国家論を語るネオコン大統領――それは、このコロナ禍においてさえ改憲を押し進めようとするこの国の総理大臣の姿と重なっているのかもしれません。それはまた、昨日紹介した大林宣彦監督の映画『ねらわれた学園』の話ともつながってくるでしょう。

ちなみに、P!NKさんは、今回のパンデミックで自身と息子が新型コロナに感染したそうです。
もう回復したということですが、その経験から、大学病院やLAの基金に寄付したうえで、「どうか家から出ないで」と呼びかけています。
望まれているのは、こういうことのはずなんです。
とりあえず、休業補償はしない姿勢であることがまずおかしい。これでは、汝臣民飢えて死ねといっているようなもので、それだから件のツイートも、朕はたらふく食ってるぞとみられてしまうわけです。国民と乖離したところから見下ろすのではなく、市井の人と同じ視点をもって政にあたることこそがいま望まれているのではないでしょうか。あ、そういえば「市井」って言葉は知らないんだったっけ……




『ねらわれた学園』

2020-04-11 16:26:13 | 映画



映画監督の大林宣彦さんが亡くなりました。

享年82歳。

時節柄、すわコロナかというふうになってしまうんですが……肺癌をわずらっておられたんだそうです。


私は大林監督にそれほど明るいわけでもなく、その作品も以前『時をかける少女』を観たことがあるぐらいだったんですが……この機に、監督の『ねらわれた学園』という映画を観てみました。

 

正直なところを告白すると、ブログのネタになるかもしれないななどというよこしまな気持ちもあってなにげなしに視聴したんですが……しかし、実際に観てみると、これがものすごい作品でした。

※以下、映画『ねらわれた学園』の内容に言及しています。観ていない方はご注意を。

大林監督といえば、自主で制作した最初の映画が『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』というものすごいタイトルだったんですが、まさにそのセンスです。『ねらわれた学園』の原作は眉村卓さんですが、このサイケデリックな映像世界は、大林監督ならではでしょう。本作は、大林映画のスタイルを確立した作品ともいいます。

独特な映像表現だけでなく、そのストーリーにもまた、考えさせられるものがありました。

ストーリーは、超能力をもってしまった少女・三田村由香(薬師丸ひろ子)と、世界支配をたくらむ悪の存在との戦い。先日記事を書いたスティーヴン・キングの小説にでもありそうな話ですが、まさにああいう感覚でしょう。そしてそれが、ただのSFではなく、深いテーマを内包してもいるのです。

物語の舞台は、第一学園高等学校。
主人公の通うこの学園に、不思議な転校生・高見沢みちるがやってきます。彼女は、間近にせまった生徒会長選挙に立候補。75%もの得票で当選し、そこから学園内にまるでナチスのような独裁体制を築いていきます。それまで自由奔放だった学園に秩序をもたらすといい、選挙という合法的な手段で生徒会長となった彼女は校内パトロールを創設。学内を監視し、風紀を乱す生徒たちを次々に取り締まり、その体制に逆らおうとしたものは自らの持つ超能力で排除していくのです。

ここに、深い世界史的テーマがみえてきます。

退廃した自由のなかに秩序をもたらすといって、独裁恐怖政治が完成する――そこでは、体制に従った者たちは、まるで死人のように青ざめた顔をしています。デフォルメによって滑稽にみえる表現ではありますが、ここにはあきらかにファシズムのイメージがあります。

この全体主義に、主人公・三田村由香は敢然と立ち向かっていくのです。

もっともはじめは、漠然と反発しているだけでした。
彼女は、ボーイフレンドの関に、懸念を吐露します。

 もしもよ、誰かの考え一つで、大勢の人に命令したり、いうことを聞かせるようになったとしたら……あたし、なんだか考えるとすごく怖いの。


その不安は的中し、事態は急速にエスカレートしていきます。
やがて学園全体が無気味な力に支配されていくと、由香は、自由な世界を守るために戦うことを決意するのです。
かつての賑わいが嘘のように静まり返った校舎に、彼女のモノローグが響きます。

  たしかに、誰かがこの学園を狙っている。
  私は、戦います。
  自分が正しいと信じたとおりに行動します。
  きっと神さまも、そんな私に力を貸してくださったのだわ。


敵の本拠地・英光塾を舞台としたクライマックスは、派手なアクションこそありませんが、強い説得力を持っています。

実は、独裁者となった高見沢みちるは、操り人形でしかありません。
本当の黒幕は、金星からやってきたという“星の魔王子”。
彼は、英光塾という塾を隠れ蓑として、若者たちを洗脳し、仲間を増やしていたのです。

仲間を助けようとする由香にむかって、魔王子は、そんなつまらないことに力を使うなといいます。それに対して、由香はこう反論します。

  人を助けるのがつまらないことなんですか。
  あなたはやっぱり人間じゃないんですね。

それに対して、魔王子は、「私は宇宙だ」と高らかに宣言。
彼にとっては、自分の理想とする世界を実現することこそが至高の目的であり、そのためなら他人のことなどどうでもいいのです。だから、他人を助けるなどということに価値を見出せません。最初期に自分の手下となったものさえ、あっさりと切り捨ててしまいます。

結果としては――当然ではありますが――由香はこの戦いに勝利。
戦いが終わった後には、洗脳された生徒たちにむかって「家に帰りましょう」と呼びかけます。
このブログでは何度か書いてきましたが、「家に帰る」という表現は、正しい道、あるべき姿に戻るといったような意味合いを持ちえます。この映画においてもそうでしょう。高見沢みちるは実は行方不明となっていた少女だったんですが、彼女が「おかえりなさい、みちる」と母親に迎えられ「ただいま」と応じる場面は、この映画のもう一つのハイライトといえます。


この作品の背景には、大林監督が敗戦を経験した世代ということもあるでしょう。

尾道三部作などでも知られるように監督は広島県尾道市の出身ですが、原爆投下の直前に広島市内を訪れていたそうで、そのときにみた産業奨励館が原爆投下で無残な姿に変わり果てたのを目の当たりにしました。そこからずっと厭戦の姿勢があり、遺作となった「海辺の映画館―キネマの玉手箱」も、そういうテーマで描かれているそうです。奇しくもこの作品は、昨日公開されるはずだったのがコロナ禍で延期になったところでした。

そして、その厭戦の姿勢から、大林監督は日本の現状も憂慮していました。
昨年行われたあるシンポジウムで、被爆者の話として、「戦争が始まる10年ほど前から世の中がじわじわ変わった」「そして今、その当時に世の中が似ていて不気味だ」という言葉を紹介しています。

今回の訃報を受けて朝日新聞に追悼の記事が出ていますが、そこにも、大林監督の発した「日本人はなぜそんなに戦争を簡単に忘れてしまうのか」という問いが紹介されていました。その問いに対する監督の答えは「それはひとごとだからだ」です。「誰もが“自分事”にしなければならない。それが映画なんだ」――そして、「過去は変えられないけど、映画で未来は変えられる」という信念にしたがって映画を制作しました。

『ねらわれた学園』にも、たしかにそうした意図が読み取れるように思います。
聞こえのいい言葉とともにじわじわと作り上げられていく全体主義のおそろしさと、それに抗う勇気。ひとごとではなく、それを自分事としてとらえ、敢然と立ち向かうこと。自分が正しいと信じたとおりに行動すること――そういうメッセージでしょう。これは、全日本人必見の映画だと思いました。