手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

子 供 と 歌 (私の経験から)

2005-08-19 21:48:04 | 思い出 1 生い立ち、
私の小学校時代は、戦時中だから、歌といえば、軍歌だった。でも、学校で唱歌として教えられたものの幾つかが、今も忘れることが出来ず、日本史となって私の心に染み付いている。「ふなさかやまやすぎさかと、みあとしたいていんのしょう、びちゅうをいかできこえんと、さくらのみきにじゆうじのし、てんこうせんをむなしうするなかれ、ときはんれいなきにしもあらず」この歌は、ただ、建武の中興のおり、名和長年が、隠岐に流されることになった後醍醐天皇を救うため、後を追い、桜の木の幹を削り、十字の詩を書いたという話だということしかわからなかったが、づうっと気になっていた。それは、漢字を当てはめることが出来ない、そして詩の意味がよくわからないということだった。
 後年、きちんと理解できると、この歌が好きになった。そして、この歌を通して建武の中興がわかり、さらには中国の歴史にまで広がり、知識を積み上げることが出来た。同じように、「青葉茂れる桜井の、、、、」とか「一の谷のいくさ破れれ、、、、、、、」といった歌は、歴史の勉強になった。
 お袋が一寸変わった人で、旧制高校の寮歌を知っていて教えてくれた。「ああ玉杯に花うけて」とか「都ぞ弥生の花紫に」といった歌を歌い、子供心に、憧れのようなものを感じさせてくれていた。
 また、小学校の時、父の楽譜の中に「波浮の港」というのがあり、父が歌ったのを聞いて、好きになり、その楽譜を見ながら覚えて、ずうっと歌い続けていた。いわば、私の最初に覚えた流行歌が「はぶのみなと」だったのだ。「磯の鵜の鳥や日暮れにゃ帰る、、、」

 子供の時に、覚えたり聞かされたりする歌が、その人の人生に大きな影響を与えるものなのだと確信しているけれど、時代の流れはそんな思いを遥か越えて、全く別の音の世界を作り出し、子供たちを誘なっているのだ。
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