手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

手稲アカシャ俳句会代表 俵いさみ氏 逝去

2011-05-14 19:29:28 | 手稲文化協会関係
先ほど和 暢絵美先生から連絡があり、俵先生の逝去を知りました。今年になってから多分2月頃だと思うけれど、電話があり「肺炎で入院した。あと文化協会の仕事できないのでよろしく」というものだった。その後一度病院へお見舞いに行き酸素吸入をしている姿にお会いしたのが最後となった。

 俵先生と親しくお付き合いいただくことになったのは、平成11年に私が手稲文化協会の会計に登用されたのがきっかけだった。そのとき彼も役員として入っていて、共に手稲文化協会創立50周年記念を祝ったのでした。その後平成13年から私が事務局長となり彼が副会長となりました。この頃から親密になり、「いの平」で共に飲むことが多くなりました。その頃から私はダンスをはじめたのでしたが、「いの平」の小野さんが早くからダンスをなさっていて、その関係で「いの平」に行く機会が多くなっていたのでした。当時「いの平」にはいい常連で佐藤安幸さんがいて、俵先生と三人で、第三木曜日には「三木会」とかと称して18時頃から飲んで歌っての会を長いこと続けました。佐藤さんが5年ほど前になくなり、それでも二人で月に一度は「いの平」で楽しんできました。

 文化協会では、私が事務局長をやるようになってから、大変革をやってきました。手稲文化祭をコミセンから区民センターに移し、伝統芸能祭を立ち上げたりし、更に現在の年忘れ芸能祭、カラオケフェステイバルなどを立ち上げてきていますが、その相談役として常に協力してくれた功労者でもあるのです。

 年齢は私より確か三歳上だったと思いますが、とたても元気で、卓球を続けていられカラオケは素晴らしい声で、氷川きよしの半次郎などは惚れ惚れさせられたものでした。

 彼の所属していた「手稲アカシヤ俳句会」は文化協会設立と同時に文化協会に加盟していて、当時の代表田中美之助氏は文化協会二代目の会長さんでした。その田中氏の後を受けて代表になっていたのでした。

 彼の後を受けてアカシャ俳句会を継続してくれる人がいるのだろうか。短歌の樹華会も文化協会を退会した。会員が減少して文化祭などでの展示も出来なくなったとのことでしたが、俳句も駄目になると、なんとも寂しいことになりそうです。

 彼の俳句で只一つ覚えているのが「熱燗や若いに勝る世辞はなし」です。この句が私には彼の辞世の句になりました。一緒に飲みながら、皆に若いね!!といわれてにこにこ笑っていた顔が髣髴と浮かんでくる。

 とにかく、心から冥福を祈ります。
コメント
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