手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

人生悔いなしといいたいけど

2019-04-23 19:43:10 | 身辺雑記
  田舎の小学校長の長男として生まれ、校長先生の息子ということでちやほやされて育った。田舎だから自分から勉強をするということはなかった。教室で先生の話を聞いているとちゃんとわかるから特別勉強をしなければならないと思ったことがなかった。

 一番初めの試練は、旭川師範の予科を受験した時だった。戦時中で口頭試問の入試だった。体育の試験もあり、軍隊の教連調の試験で大きな声を聞いただけで気が動転してろくな試験にならせなかった。何か所かの失敗を意識できた。不合格という人生最初の衝撃を受けた。そのあとの学校生活、学ぶことの楽しさを味わうことなしで過ごしてきた。変な自負があった。勉強すればみんなに負けないということだ。しかし勉強をしないで良い成績を取ることは無理な話。学生生活でいじめられるようなことはなかった。仲間の中ては悪餓鬼たちには一目置いて見られていた。兄弟が多く、貧しい家庭だったから、運動用具とかを購入してもらえず、亦運動などで何に適応できるのかもわからずに遂に一時スキー部に入っただけでつづけることもできなかった。

 運動を経験したのは、教員になってからだ。スキー、野球、卓球、バスケットボールを覚えた。でも学生時代に選手だったのなら良いのですが、仲間とただ遊びでやったというくらいです。ですから、顧問になっても高等戦術のようなものを知らないから゜まともな顧問にもなれないのです。一番長くやったのが美唄東で女子のバスケットボールの顧問です。美唄東に転任して直ぐ、女子のバスケットなら私の指導でも勝てるチームにできると思い引き受けたりです。その年に南空知で優勝して全道大会に連れてゆくことができました。しかし、これもここまでのことでそれ以上の指導ができない悲しさが残りました。スキーも一級の資格は持っているものの競技スキーの経験のなさは致命的でした。

 そんな中で、44歳で始めた詩吟だけは、それなりに努力しました。おかげで私の後半生はとても充実しものになりました。短歌もやった,社交ダンスもやった。だけど中途で挫折した。挫折かりの人生だけれど、最後が良ければみんな良しといいますね。これでよかったのでしょう。

 
コメント
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