戦後生まれの自分には、学童疎開の経験がない。母方の叔父は、当時、阿佐ヶ谷の実家から、空襲を避けるべく、真田(今の長野県の上田市)へ、疎開していたと聞いている。母校の小学校の前身である桃井第二国民学校の教師が、保存していた詳細な当時の日誌や記録が、遺族の手により発見、公開されたと新聞記事に載っていた。驚くべき事に、当時、空襲を逃れて、せっかく、避難してきたのに、その疎開先で、何人かの生徒が、死亡している事実が、記録されていると、(死因までは、出ていなかったが、、、、、)又、充分とは言えない朝・昼・晩の食事の献立や、東京へ、逃亡しようとする生徒が、実際に、いたこと、更に、事前に、沿線の鉄道駅などへ、連絡がされて、あえなくと言おうか、無事にと言えばいいのか、保護されたことなど、当時の子供達の生活を知ることが出来る。食べることすら、困難な状況下で、毎日、茄子の献立ばかりで、ひもじい思いをしながら、家族と離れて、不安な中で、暮らすということ自体、大変な事ではなかったのではないだろうか?当時、23万超の学童が、疎開したと、その家族ですら、空襲で、失った生徒もいたと、、、、。教師の目を通しての資料ではなるが、当時の子供達の日記や、作文は、ないものであろうか?明治期の津波の時にも、子供達の目を通した作文が、多数残されているようであるが、今回の大震災でも、学童疎開ではないが、貴重な体験を、トラウマを乗り越えて、いつの日にか、綴り方教室とは言わないが、資料として、後世に、残して貰いたいものである。さもないと、避難途中で、遭難した多数の児童や、依然として行方不明の児童達は、浮かばれないし、少なくとも、生き残った大人達の義務ではなかろうか?学童疎開の記録同様、いつの間にか、又、歴史の闇の中に、消え去られことのないように、、、、、、と願いたいものである。