小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

南の島を想う=ギルバート諸島、タラワ環礁島嶼 1943年11月20日のこと

2011年11月20日 | 社会戯評
1943年(昭和18年)11月20日は、父方の叔父(父の長兄)のギルバート諸島タラワ環礁島嶼(現、キリバチ共和国)での玉砕日である。その父も、その事実を知ったのは、父が、ラバウルから、名古屋港に、復員してきた昭和19年5月の事であったことが、1981年(昭和56年)8月に、夫婦揃って、第8回現地慰霊団に参加した時の追想録に、記載されている。(父は、駆逐艦、夕霧に乗船していた兄から、軍事郵便で、送られた同じ年の昭和18年の暑中見舞いの葉書を、奇しくも、手許に、1枚だけ、残っていたと)、静岡県掛塚の墓には、むろん、遺骨もないし、タラワ環礁島嶼の何処で、いつ、戦死したのかも、正確な月日さえ、未だに以て、皆目分かっていない。飽くまでも、傍証である。せいぜい、太平洋戦争の史話や、米軍の公開されている公式資料を、インターネットで、調べるくらいが関の山である。ましてや、どのような状況下で、戦死したのか、等は、「玉砕」の一言で、戦史的に、簡単に、片付けられてしまっている。祖母は、死ぬまで、その息子からの手紙を大切に、アルバムの中に、保管していた。(今では、デジタル化されて、CD-Rに保管されているが、、、、)直系の遺族が、高齢化する中で、甥である自分は、厚生労働省の公式慰霊団の参加資格を満たしていないのは、極めて、遺憾な事である。ひょんなことから、ネット検索で、この慰霊団に参加されたご遺族の孫に当たる方のHPを英文に、翻訳することになり、アメリカ側に、遺品の返還の依頼活動を試みることになり、NYで、NPO法人のPacific Wrecks Inc.を立ち上げているJustin Taylan氏とコンタクトし、現在、この活動の協力を要請中である。いつの日にか、ギルバート諸島のタラワ環礁島嶼へ、日米の関係者ともに、相互の慰霊の旅に、行きたいものである。何故、そんな遠い南太平洋の最前線で、玉砕しなければならなかったのかを、自分のこの目で、確かめてみたいと思っている。尖閣列島やTPP 、ASEAN+3, ASEAN+6を耳にするにつけ、約70年前に亡くなった叔父達の若き死は、果たして、どのような意味があったのかを想わざるを得ない。

http://www7.ocn.ne.jp/~yagiko/index.html
http://www.pacificwrecks.com/people/authors/taylan/index.html