いつの頃からか、忘れたが、余り、日本シリーズを含めて、野球中継を見なくなった。子供の頃は、空き地で、三角ベースをやったり、日本シリーズともなれば、小学校の図書館に備え付けられた白黒テレビの前に、野球好きの男の先生や、野球少年達が、椅子を持ち出して、皆で、観戦したものである。東京生まれの東京育ちの私は、当時は、水原巨人軍のファンで、三塁側コーチャーズ・ボックスで、ユニフォームのベルトのバックルの処に、カウ・ボーイのように、両手を当てて、一寸、左腰に、重心を移動して、サインを送るのが、やたら、ダンディーで、どういう訳か、格好良くて、子供心に、その格好を真似したものである。むろん宿敵、西鉄ライオンズは、三原監督の独特の采配マジック、仰木、高倉、豊田、中西、鉄腕稲尾等の癖のある野武士選手団で、あっさり、巨人を破り、黄金時代を迎えることになった。落合監督は、野村も含めて、三原監督の系譜を引き継ぐ、玄人好みの監督で、今年は、その集大成の最期の年である。元3番・4番打者が、居並ぶソフト・バンクス・ホークスに対して、とりわけ、第二戦での要注意の内川のバットのテープに対する嫌がらせともとられる神経戦等は、三原マジックを彷彿とされる洗練された高度な戦術である。一球入魂、一挙手一投足、瞬時も、気が抜けない野球の醍醐味は、ピンチが、チャンスに、逆に、今度は、チャンスが、ピンチに転化してしまう、まるで、人生ゲームよりも、面白さが、そこにはある。もっとも、やっている選手達は、大変であろうが、見る方には、堪らない。カネにものを言わせて、相手チームから、主力打者を根こそぎ引っこ抜くような渡辺天皇のようなやり方には、本当の玄人好みの「監督の采配」という目に見えない戦いが、全く、感じられないのは、残念である。野村・落合の野球解説や、江川や桑田の監督も、将来、見てみたいものである。2年前の完全試合を目前にして、最終回に、岩瀬を投入したようなそんな、意外な采配ぶりが、久しぶりに、今年は、見られるのであろうか?多いに、楽しみである。サッカーのキラー・パスではないが、一挙に、状況を逆転させるような采配が、いつ、どこで行われるのか、興味深いものがある。
所用のために、東京へ、戻って来たら、ハナミズキの葉が、赤い実とともに、3分の2程、コンクリートの地面に、落ちていて、掃くつぎから、はらはらと、舞い落ちてくる。小諸なら、土の上に、そのままで、モミジなどは、腐葉土の層を作るが、都会では、そうは行かない。今年新たに、購入した落ち葉を溜める大きな立方体のプラスチック製の袋に入れて、腐葉土を作ることにした。小学校のクラス会は、もう、何年位続いているのだろうか?まとめ役の幹事さんのお陰で、年齢から、計算すると、卒業後、有に50年位に、なるであろうか?利害関係のないクラスメートは、親の介護のこと、年金のこと、しみのこと、頭髪のこと、政治・経済、それぞれ、とりとめのないことを、先生も含めて、食事を食べつつ、お酒を酌み交わしながら、延々、5時間余りも、おしゃべりをしたことになる。先生は、大正15年生まれで、フォークダンス、日舞、卓球、老人会の世話役と、毎日、日程が、びっしりと詰まっていて、足腰に問題もなく、頭脳明晰、へたをすると、生徒の我々の方が、心配になるくらいである。自分は、既に、両親の介護を卒業したが、90代になる両親や、姑を抱えて、現在進行中の人達が、何人かいる。人それぞれ、条件は異なるものの、いずれは、自分も同じ道を辿る以上、今から、心して、予行演習、準備しておかなければならないであろう。人生それぞれ、幸福度の基準は、異なるが、少なくとも、こうして、利害関係のない昔の子供時代を知っている人達の前では、少なくとも、不必要に、繕う必要がないことには変わりがないのは、事実である。各々、今後、幸せな隠居生活を、どのように、送るのか、楽しみである。
「難民を助ける会」の会員の一人が、トルコの地震で、救援活動の最中に、余震で、亡くなったそうである。何とも、筆舌に尽くせぬ悲惨なニュースである。高邁な理想と行動力を実践しながら、不条理な死である。我々の若い頃は、せいぜい、肉体労働や単純作業の提供や、社会勉強目的でのアルバイトに、一寸、毛の生えた程度の単純労働型社会貢献(もっとも、クラブに、資金提供するのが、原則であったが、、、、)くらいであった。近年は、災害ボランティアや、NPO活動への積極的な活動参加や、これを目的としたツアーまでも、募集されていると聞く。一方、昭和26年以来と謂われる生活保護受給者の急増は、何とも、対照的な事実である。戦後の混乱期を除くと、生活が豊かになったといわれて久しいが、実態は、どうやら、そんな単純な事ではなさそうである。セイフティー・ネットの確保や、公的就業支援フォローもさることながら、労働意欲があっても、ミス・マッチから、安易に、生活保護を受給申請することにも、なるそうである。田舎で、それこそ、レタスの収穫作業を目にすると、いくらでも、労働意欲さえあれば、就労の場は、何処にでもあるように見受けられるが、現実は、そうではないらしい。制度上の問題なのか、運営の問題なのか、それとも、あくまで、個人の意欲の問題、自己責任なのか、首根っこを押さえつけて、強制する訳にもゆかず、「自発性・自主性」というややこしい問題の中で、志半ばで、不条理に、死ななければならなかった人間と、労働意欲はあるが、生活保護受給を申請する人間とは、いつ、どこから、どのように、枝分かれしてしまったのか?ふと、考えざるを得ない。
昔、食肉用の鶏肉の輸入をタイから、やっていたときに、その元となる親鶏は、北米産の鶏で、米国の知的財産権の及ぶところであった。白色レグホンくらいは、名前だけは、知っているが、、、、。採卵鶏も、こうした傾向が、依然として、日本でも、根強く、なかなか、国産化が、前進しなかったのが、現実であったらしい。何と、わずかに、6%程度しか、国産化されてなく、親鶏は、外国からの空輸が、ほとんどであると、確かに、鳥インフルエンザのリスクは、侮れず、採卵用、食肉用を問わず、このリスク・ヘッジが、急がれるわけである。その意味では、国産化の推進は、外国産と能力が変わらなければ、積極的に、進めるべきであろう。宮崎の和牛のBSEの問題でも明らかなように、何世代もの開発は、時間がかかることは、否定できない。鶏も牛肉も、元になる種を開発するのは、知的財産権の観点からも、一地方企業だけでなく、国策として、野菜・果物なども含めて、喫緊の課題であると思う。TPPの議論が、連日、喧しい昨今であるが、、、、。
今、ヘビー級のチャンピオンが、誰かと問われても、残念ながら、答えられない。物心ついた頃は、ヘビー級のボクサーと言えば、ロッキー・マルシアノ、次に、フロイド・パターソン、そして、カシアス・クレー(後のモハメド・アリ)、そして、ジョー・フレーザー(止まらない機関車と称された)、更に、イベンダー・ホリフィールド、そして、ジョージ・フォアマン(後に牧師になり、戦う宣教師と呼ばれた)、マイク・タイソン(後に、婦女暴行罪で、逮捕される)この辺までであろうか?一斉を風靡した「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と言われたアリを、倒した無敵と言われたフレーザーも、後に、ホリフィールド、フォアマンと、チャンピオンが、変わって行く。奢るもの久しからず、盛者必滅の理であろうか?あの頃のアメリカのヘビー級は、面白かった!これ以上に強いチャンピオンは、出ないだろうと言われていたのに、呆気なく、新チャンピオンが、次々と生まれた。あの頃のアメリカのヘビー級は、面白かった。先日、カシアス内藤の子息が、ボクサーとして、デビューするドキュメンタリーを見たが、久しぶりに見たカシアス内藤の風貌には、深い人生が、滲んでいた。ジョー・フレーザーの死の記事に、色々と、想い出された。
タイの洪水被害が、心配である。むろん、サプライ・チェーン・システムへの影響もさることながら、感染症や衛生面も、不安材料であるが、現地では、日本メディアの取材に対して、震災の被害の方が、大変ではないかと、逆に、同情されているのには、驚かされる。更に、街の中で、投網を打って、ナマズを獲ったり、釣りをしたり、エンジンの高さまで、冠水しながら、車や、バイクで、移動したり、果ては、土嚢や、ゴム・ボートまでも、販売したり、膝まで、水に浸かりながらも、屋台で、食べ物を販売したり、又、それを買って食べていたりと、、、、驚くべき光景を、テレビでも放映されている。何と、「マイ・ペン・ライ」な民族気質だろう!確かに、一寸、激しいスコールが降ると、幹線道路でも、冠水することが、しばしばだから、この程度では、驚かないのだろうか?何とも前向きで、良いではないか?日本人だったら、まず、間違いなく、そんな対応はしないだろう。もっとも、糞尿・汚水や、化学物質、ゴミ等による感染症や、養殖ワニの逃亡、果ては、大量の蚊の発生によるデング熱の危険となると、事は、重大である。「マイ・ペン・ライ」どこの話ではないと思われるが、、、、、、。メキシコでも、「アスタ・マニャーナ」という言葉があるが、「明日は、明日の風が吹く」という日本語は、最近、どうも、耳にしなくなってしまった。そんな楽観主義者は、今や、非国民呼ばわりをされそうである。「一億総ペシミストと萎縮化傾向」が、ますます、進行中である。高齢で、健康不安のあるフミポン国王、軍部、タクシン派、反タクシン派間での深刻な対立、洪水とともに、タイは、何処へ、流されて行くのだろうか?タイの友人達は、大丈夫であろうか?何故か、ふと、渥美清の「フーテンの寅」シリーズを、急に見たくなってしまった。
いつも通っているスポーツ・温泉施設の産直コーナーに、大粒の銀杏が、売られていた。横には、胡桃の実も、ネットにくるまれて、置かれていた。私は、ナッツ類が、食物アレルギーなので、やや、精の強い銀杏の実も、反応してしまうのであるが、キノコ類程の酷いものではない。もっとも、残念ながら、胡桃の実は、極めて、鋭敏に、反応してしまう。内部に、ナッツや胡桃が練り込まれているケーキなどは、私は、「掟破りの反則ケーキ」と呼んでいる。(外に、ふりかけられているのは、容易に、識別可能だが、、、、) 食べられるのに、食べられないことは、大変、悩ましいものである。舌は、満足するのに、体質・皮膚の方が、拒絶してしまうのである。秋の季節を感じるこうした生の胡桃や銀杏は、その季節でないと、食べられないのも、事実である。居酒屋などで、銀杏が、殻ごと、黒く焼かれて、半分、口があいて、手で剥きながら、熱っつつと言いながら、食べるのも、乙なものである。酒は、日本酒の地酒とくれば、たまらない。品物に凝ると、今度は、一人用の網焼き火鉢セットが、欲しくなるが、、、、御台所様の許可は、下りそうもないのは確かだ。ふぐの一夜干しやスルメを炙りながら、酒を飲むのも良いとは思うが、、、、。現時点で、「購買意欲」を、そそられる私の唯一の商品である。遠赤の網焼きを試みたところ、殻が、破裂してしまったので、やむなく、翌日、殻を割った後で、焼くことにした。ついでに、胡桃も、殻を割ってみることにした。結構、時間は、掛かるものの、存外、それ程、重労働ではない。うまく、割れるものである。要領を得ると、殻の割り方も、上達するものである。5分もやれば、生産性が向上してくる。秋の夜長は、こうして、更けて行く。
11月になったものの、福岡では、26度にもなったりと、季節の変化が、どこか、おかしい今日この頃であるが、真っ先に紅葉を始めたモミジも、冷たい雨に打たれて、落葉し始めた。朝方には、暖かい空気と冷たい空気とが、ぶつかり合い、霧が、ここの里山にも、掛かり、何とも言えない風情がある。冷たい空気の中を、散歩していると、道ばたの落ち葉が、徐々に、積み重なってくるような感じがよく分かる。先頃まで、緑色の葉を、蓄えていた残り少ないドングリの木々も、既に、落葉準備を整えているものから、やっと、黄色から茶色へと、その葉の色を変えてきた。ドウダンツツジも、今や、深紅に染まってきた。見事に、真っ赤に染まった玄関のモミジから、見る景色も、日々、刻々と、移ろい行く気配が、慌ただしい。やがて、数枚の葉を残して、ほとんどの葉が、落葉して果て、来春の新たな芽吹きを、準備し始める。里山は、いよいよ、晩秋から、初冬への移ろいへとなる。
太巻き寿司を作ってみる=簡単に出来るものである!
野菜ばかり食べていると、たまには、寿司が食べなくなった。買い物をしていたら、ふと、細巻き・太巻き・握りすし・おにぎり成型キットというものが、販売されていて、しかも、@198円の売値だったので、太巻き型を購入した。節分の時に、恵方巻を食べると、福を呼ぶと謂うが、このキットだったら、刺身の材料と海苔と酢飯を準備すれば、簡単にできそうである。3つのパーツから出来ていて、始めに、下半分のご飯を入れ、具材の芯を真ん中にして、この上から、上半分を押す要領で、太巻きの原型が出来るので、後は、海苔の上に載せて、巻くだけである。多少、芯が多すぎて、真ん中に、来なかったが、アボガドとサーモンとネギトロを、購入して、太巻きに挑戦してみた。成程、大きな失敗がない。これなら、ホーム・パーティーなどの時には、もってこいではないだろうか?ロボット寿司が、繁盛する訳で、職人泣かせのキットが、こんな安い値段で、販売されているのには、驚ろかされた。手間を考えれば、細巻きより、太巻きの方が、生産効率は宜しいですね!約1合の米で、太巻き1本分程度であった。具材を色々、替えれば、各種太巻きが出来そうである。又、新しい愉しみが、増えそうである。
野菜ばかり食べていると、たまには、寿司が食べなくなった。買い物をしていたら、ふと、細巻き・太巻き・握りすし・おにぎり成型キットというものが、販売されていて、しかも、@198円の売値だったので、太巻き型を購入した。節分の時に、恵方巻を食べると、福を呼ぶと謂うが、このキットだったら、刺身の材料と海苔と酢飯を準備すれば、簡単にできそうである。3つのパーツから出来ていて、始めに、下半分のご飯を入れ、具材の芯を真ん中にして、この上から、上半分を押す要領で、太巻きの原型が出来るので、後は、海苔の上に載せて、巻くだけである。多少、芯が多すぎて、真ん中に、来なかったが、アボガドとサーモンとネギトロを、購入して、太巻きに挑戦してみた。成程、大きな失敗がない。これなら、ホーム・パーティーなどの時には、もってこいではないだろうか?ロボット寿司が、繁盛する訳で、職人泣かせのキットが、こんな安い値段で、販売されているのには、驚ろかされた。手間を考えれば、細巻きより、太巻きの方が、生産効率は宜しいですね!約1合の米で、太巻き1本分程度であった。具材を色々、替えれば、各種太巻きが出来そうである。又、新しい愉しみが、増えそうである。
ここのところ、ずっと、日曜日が、雨なので、久しぶりに、炊飯器ではなくて、オーブンで、ケーキを手作りして、おやつに戴くことにした。チョコラ・タイプのスポンジ・ケーキ・ミックスである。バーミックスを東京の家で、使用しているので、使わなくなったハンド・ミキサーを、持ってきた。生クリームを作るのにも、大変、便利である。さすがに、ガナッシュまでは、今一自信がないので、今回は、パスして、シンプルに、生クリームを上に載せるだけにした。そう言えば、食べ残しておいた完熟バナナがあったので、急遽、バナナ・スポンジ・ケーキとしたが、ショコラの味に、負けたのか、量が少なかったのか、負けていた。結局、失敗のない範囲で、自己満足の範囲で、味わった。上の焼き型まで、入っていて、確かに、失敗がないのには、相変わらず、驚かされる。男のスウィーツ作りには、この程度で、十分であろう。イチゴなど、乗っけたら、子供の誕生日にも、出せるのではないか?若いパパは、お試しあれ!我が老犬は、良い香りがしてきたのか、クンクンと、いつもの如く、鼻を嗅ぎ始めた
庭作りのポリシーは、なるべく、樹を切らずに、共存することを、長い間、守ってきた。ニセアカシアとは、元々、友人の奥様の言によれば、明治の初めころに、蜜を採取するために、北米原産の豆科の落葉高木樹を持ち込んだもので、痩せた土地などでも、繁殖力が旺盛で、従い、要注意危険外来生物リストに挙げられているそうで、日本固有種の樹木を、駆逐してしまうらしい。確かに、そう言われてみれば、手入れのされていない区画の土地などは、ほとんど、占有され放題である。棘があり、根から、不定芽が、おびただしく、出てくると、、、、。我が庭の西側にも、ひっそりと、息づいていたのが、ここ数年で、アッという間に、5m程に、成長して、初めて、6月初めころに、綺麗な白い花房をつけたのを見た。樹の幹も、太くなると、伐採が難しく、10cmを超えようものなら、切り倒すのも、経験上、大変難しいことは、分かっている。友人の奥様の助言もあり、伐採してみることにした。尚、根も、根絶やしにする必要があると、その後には、山紅葉と楓の苗を、植えることにした。
学生時代の友人ご夫妻が、東京から、山歩きも兼ねて、わざわざ、小諸の拙宅まで、泊まりがけで、来てくれた。角間渓谷では、落ち葉の道にルートを誤り、顔がひきつる思いをしたそうであるが、それも、想い出になって宜しかろう。布引観音や、懐古園のモミジ、マンズ・ワインの日本庭園で、紅葉を楽しんだり、朝夕、散歩をしたりと、自然をお互い、愉しんだ。奥様は、自然観察で、草花に、造詣が深く、私が、これまで、悩ましいと思っていた草花の名前を、こともなげに、見事に、教えて貰った。一薬草だそうである。紅花一薬草というものもあるらしい。早速、ネットで、調べてみると、確かに、その花である。薬草だったのである。「イチヤクソウ科の常緑多年草。山野の樹陰に生え、高さ約20センチ。葉は根生きし、広卵形。初夏、花茎を立てて、白色五弁の梅に似た花を総状につける。葉の液汁は切り傷・虫さされに効く。また、全草を干したものを鹿蹄(ろくてい)草と呼び、煎(せん)じて脚気 (かつけ)の薬とする。」そうである。他にも、色々と、草の名前を教えて貰ったが、夫君同様、どうも、今ひとつ、頭に、残っていないのが、大問題だ!「おけら」という草の名前は、どういう訳か、印象深かったので、記憶に、止めているが、、、、、。これからの散歩も、草や、樹木の名前を、調べながら、歩くと、これ又、新しい発見が、生まれて、一興であろう。さすがに、懐古園の石垣の苔むす間に、生えている草を一眼レフの写真に、撮る観光客は、珍しい、、、、、、、。又の再訪を願いたいものである。
落ち葉の臭いがする=
秋の紅葉の深まりとともに、早くも、落ち葉が、道を埋め始めた。特に、ひらひらと、赤松の実が、落ち始めると、今度は、葉が、はらはらと、落ち始めた。特に風が、強い日は、まるで、雪が降るように落ち、車の通り道は、タイヤの跡だけを残して、松葉で、埋め尽くされる。既に、桜の葉は、とっくに、落葉して、一部の落葉樹も、中には、完全に、葉がなくなっているものやら、逆に、未だ、しっかりと、緑の葉を蓄えているものもある。我が老犬は,何かを嗅ぎつけたのか、落ち葉の吹きだまりに、鼻先を突っ込んだまま、動こうとしない。確かに、散歩していると、ほのかに、落ち葉の臭いがしてくる。林檎園の傍は、ほのかな甘い林檎の香りがしてくる。大自然の中で、毎日、犬と散歩していると、人間も、五感が研ぎ澄まされるようになるのだろうか?季節の移ろいを、臭いで、感じるようになった自分を、ふと、不思議に思う。どこかで、誰かが、落ち葉焚きでもしているのであろうか、かすかに、落ち葉を焼く臭いが、たなびいてくる。我が老犬も、長い鼻を、風上の方角に向けて、何処から来るのだろうかという風に、嗅いでいる。目と耳が衰えてしまったので、鼻だけが頼りである。程なく、晩秋から、初冬に向かうことになる。腐葉土や落ち葉の放射能問題は、さておき、、、、。
秋の紅葉の深まりとともに、早くも、落ち葉が、道を埋め始めた。特に、ひらひらと、赤松の実が、落ち始めると、今度は、葉が、はらはらと、落ち始めた。特に風が、強い日は、まるで、雪が降るように落ち、車の通り道は、タイヤの跡だけを残して、松葉で、埋め尽くされる。既に、桜の葉は、とっくに、落葉して、一部の落葉樹も、中には、完全に、葉がなくなっているものやら、逆に、未だ、しっかりと、緑の葉を蓄えているものもある。我が老犬は,何かを嗅ぎつけたのか、落ち葉の吹きだまりに、鼻先を突っ込んだまま、動こうとしない。確かに、散歩していると、ほのかに、落ち葉の臭いがしてくる。林檎園の傍は、ほのかな甘い林檎の香りがしてくる。大自然の中で、毎日、犬と散歩していると、人間も、五感が研ぎ澄まされるようになるのだろうか?季節の移ろいを、臭いで、感じるようになった自分を、ふと、不思議に思う。どこかで、誰かが、落ち葉焚きでもしているのであろうか、かすかに、落ち葉を焼く臭いが、たなびいてくる。我が老犬も、長い鼻を、風上の方角に向けて、何処から来るのだろうかという風に、嗅いでいる。目と耳が衰えてしまったので、鼻だけが頼りである。程なく、晩秋から、初冬に向かうことになる。腐葉土や落ち葉の放射能問題は、さておき、、、、。
いつのことだったろうか、もう記憶の片隅に消え去られそうになっているが、ハロウィンの日に、ポートランドだったろうか、日本人留学生が,若くして、「Freeze」を理解せずに、仮装のまま、他人の家へ、入ろうとして、射殺されたことがあったが、何故か、ハロウィンになると、その悲劇が、想い出されて仕方ない。一方、今日では、若いママ達は、子供達に、仮装パーティーやら、お菓子を振る舞って、「Trick or treat」(お菓子をくれるか、さもなくば、悪戯をするよ)とばかりに、お菓子をしこたま、配るそうである。元々、ケルト人達の収穫感謝祭が、諸聖人の日(11月1日)(聖徒の日として、宗派にもよるが、亡くなった信徒の為に祈る日として)、の前夜祭という形で、諸聖人(All Hallows )の前夜(Eve) が、やがて、Hallowseve から、やがて、Halloween に訛っていったと言われている。チョコレート業界が、バレンタインズ・デイを、商業化したように、今や、「コスプレ」に、いよいよ、進化していくのであろうか?換骨奪胎を得意とする日本の商業主義は、今や、これでもかとばかりに、人の心の中に、土足で、入り込むのだろうか?戦後民主主義の虚構も、同じ根を持つものなのだろうか?無邪気にはしゃぐ仮装パーティーの写真を眺めながら、ある種の不気味さを感じるのは、私一人だけだろうか?