瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想合宿レポート5

2005年01月07日 | 瞑想合宿レポート
◆もう一つの渇愛(続き)
私がこの合宿で求めているのは、前回の気づきをさらに深めたいということだ。前回の合宿で私は、思いがけなく自分の劣等感を実感し、その補償として本を書いたり、ホームページ運営をしたりしている面があることに気づいた。ヴィパッサナーには、こういう洞察を起こす力があることを実感した。だからこそ、今回はさらにその洞察を深めたい、できれば劣等感を解放したいと願ってこの合宿に臨んだのだ。やはりそれが私のいちばんの動機なのだ。そう実感した。

その実感の後に、何か割り切れない感じが来た。この願いはまっとうなものだと、おそらく直感的に感じたのである。なのになぜサティができないのか。なぜ瞑想がこんなにもガタガタになるのか。そこに割り切れない、理不尽なものを感じたのだろう。そしてその瞬間に気づいた、洞察を深め、劣等感を解放したいという願いの背後に、もうひとつの別の渇愛が隠れていることを。それは、この合宿での体験をもっとよいレポートにして発表し、評価されたいという渇愛であった。

洞察を深め、劣等感を解放したいという思いは、より成長し、より自由になろうとする心の、本来の動きであり、善心所であろう。しかし、よいレポートをして評価を得たいという「期待」は、劣等感に根ざす補償行為であり、渇愛なのだ。それまで、瞑想そのものへの渇愛が妨害になっているとばかり考え、よいレポートを書きたいという渇愛にはまったく気づいていなかったのである。

◆瞑想が一変する
そう気づいたとき、「なるほど、そうだったのか!」という納得感、何かしら「腑に落ちる」感じがあった。しかし、もっと印象的だったのは、瞑想が一変してしまったことだ。階段での気づきのあと、そのまま上がっていった2階の座禅室で座った。15分ほどだったが、これまで悩まされていたのが嘘のように、苦もなく中心対象にサティが入っていく。何かすっきりしている。そのあまりの違いに感動した。

心の状態、たとえば隠された割愛が、いかに瞑想に直接影響するか、ここでまずはっきりと体験したのである。
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瞑想合宿レポート4:続き

2005年01月07日 | 瞑想合宿レポート
◆もう一つの渇愛
3日目、朝起きてすぐの座禅は、そこそこに出来たが、自宅で行っているとき同じようなものだ。朝で条件がよいから、最悪の状態にはならなかっただけだろう。その後の座禅はだいたい、サティが入る前に次々と妄想が展開してしまう状態だった。

ただし歩行瞑想は、比較的よい状態だった。少しは心随観ができたかも知れない。この違いは、どちらかというと得意な座禅の方では期待や渇愛があって瞑想にならず、逆に苦手な歩行瞑想では最初から期待していないから、かえってよい状態になるということなのか。

ともあれ、座禅をしたり、歩行瞑想をしたり、ときには条件や雰囲気を変えて喫茶室で座禅をしたりして、途方にくれながらも瞑想を続けていた。夕方、風呂からでたあと喫茶室で瞑想するが、思考=妄想ばかりでほとんどサティが入らない。少しは入ってもすぐに妄想に巻き込まれる。何の洞察もない。場所を移動し、一階の部屋で座禅。これも同じようにダメ。

困り果てて一階の部屋からでた。階段を上がる。一段上がる度に足の上げ下げや移動、筋肉の動きにサティをしていく。歩行瞑想と同じだ。こんな動作にはサティが入りやすいのだが、いつしか思考モードになっていた。「さて、どうしたらよいのだろう」と考えていた。そのときふと、自分が本当は何も求めているのかが分かった気がした。「やはりそうだった」と実感した。
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