◆無意識の自律性
女王と一体になる体験の前日に、似たような体験をしたことはすで触れた。例の女子生徒に自分が重なっていき、その直後に天女になって空に舞い上がった体験である。この二つは、どのように関連しているのだろうか。
おそらく天女も、自分のなかの女性性を肯定するイメージだっただろう。しかし一瞬の戸惑いのなかで、私は空を舞うイメージに身を任せなかった。それが体験を消化不良にさせたのだろう。だから、このイメージの体験後はあまり解放感がなかった。そして翌日、女王というもっと分かりやすいイメージによって再びアニマとの統合が図られたのではないだろうか。しかも女王は、王(男性性)と対となるから、統合のイメージによりふさわしい。
あるいは、9日目の明け方に、自分の根深いコンプレックスを受容する体験があった。そのコンプレックスとアニマの抑圧とは関連している。そういう深い受容があったからこそ、アニマとの充分が統合の準備が出来たのかもしれない。それが、女王のイメージとの一体化につながっていったとも思える。
ともあれ、自分の意図しないところでかってにイメージが展開し、抑圧されたものとの統合が果たされていくということに強い印象をもった。人の無意識の働きの不思議さに心を打たれた。ユングは、無意識が自律性をそなえ、かつ創造的で、ときには人格的なものとして現れてくることを指摘したというが、まさにそのようなことを自ら体験したのである。天女のイメージで未消化だった体験を、さらに女王のイメージによって再体験させるなどは、意識的な私からは独立した知恵のようなものを感じさせた。
◆なぜあの女性徒だったのか
ユングは夢の分析を進めるうちに、男性の夢に特徴的な女性像が多く出現することに強い印象をもった。そのような女性像の元型として、男性の集合的無意識のなかに潜む女性像・女性的性質をアニマと呼んだ。(これに対し、女性のなかに潜む男性性がアニムスである。)
とまあ、これは教科書的な説明だが、ひとつずっと気になっていたのは、なぜあの女性徒が、私のアニマの現実における対応人物になっていたのかということである。前にも書いたように、私は彼女に特別な感情は何ももっていなかったのである。
女王と一体になる体験の前日に、似たような体験をしたことはすで触れた。例の女子生徒に自分が重なっていき、その直後に天女になって空に舞い上がった体験である。この二つは、どのように関連しているのだろうか。
おそらく天女も、自分のなかの女性性を肯定するイメージだっただろう。しかし一瞬の戸惑いのなかで、私は空を舞うイメージに身を任せなかった。それが体験を消化不良にさせたのだろう。だから、このイメージの体験後はあまり解放感がなかった。そして翌日、女王というもっと分かりやすいイメージによって再びアニマとの統合が図られたのではないだろうか。しかも女王は、王(男性性)と対となるから、統合のイメージによりふさわしい。
あるいは、9日目の明け方に、自分の根深いコンプレックスを受容する体験があった。そのコンプレックスとアニマの抑圧とは関連している。そういう深い受容があったからこそ、アニマとの充分が統合の準備が出来たのかもしれない。それが、女王のイメージとの一体化につながっていったとも思える。
ともあれ、自分の意図しないところでかってにイメージが展開し、抑圧されたものとの統合が果たされていくということに強い印象をもった。人の無意識の働きの不思議さに心を打たれた。ユングは、無意識が自律性をそなえ、かつ創造的で、ときには人格的なものとして現れてくることを指摘したというが、まさにそのようなことを自ら体験したのである。天女のイメージで未消化だった体験を、さらに女王のイメージによって再体験させるなどは、意識的な私からは独立した知恵のようなものを感じさせた。
◆なぜあの女性徒だったのか
ユングは夢の分析を進めるうちに、男性の夢に特徴的な女性像が多く出現することに強い印象をもった。そのような女性像の元型として、男性の集合的無意識のなかに潜む女性像・女性的性質をアニマと呼んだ。(これに対し、女性のなかに潜む男性性がアニムスである。)
とまあ、これは教科書的な説明だが、ひとつずっと気になっていたのは、なぜあの女性徒が、私のアニマの現実における対応人物になっていたのかということである。前にも書いたように、私は彼女に特別な感情は何ももっていなかったのである。