瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想合宿レポート9

2005年01月11日 | 瞑想日記
◆何度も繰り返す愚かさ:補遺
合宿中は、どんなにあがいていても瞑想以外にすることはない。仕方がないから、もがきつつ瞑想を続ける。すると突如として水面から顔一つ浮き出るようなことが起こるのだ。それはつかの間のことだが、その最中はエゴの愚かさがはっきりと見え、エゴの一部分から自由になっている。瞑想とサティそのものの力がそんな状態を生み出すようだ。少なくとも意識の働きを超えたところでそれは起こる。再び水面下であえぐにせよ、一度視界が開けた記憶は心に残り、ヴィパッサナー瞑想を続けていればやがて意図せぬ転回が起こる、この瞑想にはそんな力があると信じるようになる。この合宿中に私自身が、そういう確信を強めていった。

◆若き日の痛手
5日目も、瞑想は安定し、サティが持続的に入るようになっていた。少なくともこれまでのようなひどい状態にはならなかった。ダンマトークのあと1時間20分ほど座禅を続けた。途中で足は組み変えたが、とくに後半努力なしに集中ができるようになった。

座禅中、ある人物と比較して自分にはリーダー性がないと劣等感を意識していた。そこから、20代のころに主催していた心理療法の学習グループを思い出した。そこでの指導力にも自信がなかったのである。さらに、そこで出来た一人の友人を思い出した。その友人は、私がかかえる問題点を徹底的に攻撃した。私は、深く傷つき、数日間外出もせずに落ち込んでいた。最初は、何を攻撃されたのか思い出せなかったが、やがて一つの言葉がきっかけとなって内容をほぼ思い出した。その直後から、からだがスーッと楽になり、腹の動きに気持ちよく集中できるようになった。そして、すっきりとした気分で座禅を解いた。

◆思考モード
昼食後の歩行瞑想でも、足裏の感覚を苦もなく追うことができ、これまでとの大きな違いに「なんだ、こんなに楽にできるんだ」という印象だった。その後、7~8分の仮眠をとって再び座禅をした。ますます瞑想は安定し、努力感なしに楽にサティが持続した。ときに夢のようなイメージに何度か入りかけるが、イメージが展開する前にサティが入った。

しかし、この日の夕方、3階で歩行瞑想をしたときは、かなり思考モードでの心随観になっていた。5時ごろからの1時間の座禅も再び思考が多くなっていた。
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