瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想合宿レポート13

2005年01月19日 | 瞑想日記
◆抑圧を浮上させるプロセス
腹の動きや足裏の感覚などを中心対象として、その一瞬一瞬の感覚にサティをし続ける。中心対象への集中は、一般的には自我の努力によってなされる。当然、集中は途切れることがある。たとえば歩行瞑想ですれ違った人の体格のよさに注意が向く。これは、自我による努力の方向が何ものかによってさえぎられ、そらされたということだ。気づいて、「体が大きい、と思った」などとラベリングし、再び中心対象に戻る。しかしすぐに、連載中の論文に意識が飛んで思考が始まる。気づいて「思考」とラベリングし、中心対象に戻る。そんなことを繰り返すわけだ。

意識が中心対象からはずれて、他の対象に飛ぶこと自体は意識的なプロセスではない。何に注意が飛び、どんな思念やイメージが浮上してくるかは、自我による裁量を超えている。抑圧に関係した対象やイメージ、思念や感情が、自動的に浮き上がってくる傾向があるのだ。それらに敏感にサティを入れ続ければ、やがて相互の関連が見えてきて抑圧されたもの全体像が姿を現す。ヴィパッサナー瞑想のこの方法は、自由連想や夢の分析やカウンセリングなどに比べてかなり強力だというのが、私の感想である。しかも、上に述べたことはヴィパッサナー瞑想の方法のほんの一側面にすぎない。瞑想合宿の回をかさねる毎に、この方法の素晴らしさ、奥深さに魅せられる理由が理解していただけるだろうか。

◆棟方の吉祥天はあった
15日に棟方志功の吉祥天図は見つからなかったとかいたが、実はやはりあった。私の探し方が不充分だったようだ。「吉祥妙朝顔蘭菩薩図」というのがそれだ。ただし、この絵の細部まで覚えていて、それが女子生徒のイメージと重なったわけではない。棟方の版画の女人らしきものが見え、それを一瞬「吉祥天だ」と思った(感じた)だけである。
コメント
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