瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

無明2(今日の日記)

2005年01月21日 | 瞑想日記
私が感じる無明についてもう少し。

いのちの、生きようとするエネルギーそのものに無明の根底がある。それがどこから出てきて、どこに消えていくのか分からぬままに生きていることの無明。

加えて、自分が生み落とされた文化と言語のシステムや、その時代、その社会の中で、自分の生に与えられた個人史的な条件(肉体、家族、教育、生育暦等)に制約されながら、無明の命に無明の方向付けをしていくことの無明。

生み落とされた時代や与えられた文化・言語体系に制約されながら、無明のいのちに無明の方向付けをしていく基盤になるのは、「自己」という幻想。さまざまな過去の経験、そしてその言語的・観念的な編集、それら一切の蓄積の中で「自己」という思考の産物が形成される。そのことの無明。「自己」は、その枠組みにそぐわない、観念や感情や経験を無意識に追いやる。それがまた、無自覚なエネルギーとなって「自己」を突き動かす。その無明。

「自己」を守るために、いかに多くの、自覚されない経験が、無意識の底に追いやられていることか。それら追いやられた経験たちの苦しみ。そして、そのことの無明。

いく重にも層をなした無明のいのちを生きることを、輪廻という形で繰り返す、その苦しみ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瞑想合宿レポート14

2005年01月21日 | 瞑想合宿レポート
◆無明の雪
前回の夏の合宿の最終日。打ち上げ前の雑談のなかで輪廻と解脱の話題になった。原始仏教を熱心に信じる二人の参加者が、「解脱が最終目標とは言っても、やはりあと数回は生きたい」と話していた。冗談半分だったかも知れない。その時、私自身はどうかと自問した。驚いたことに、再び生まれてきたいという気持ちは出てこなかった。むしろ、これ以上は、生まれてきたくないというのが正直なところだった。

今回の合宿、前日の面接だったかに地橋先生にこのことを話した。先生は、意外そうな、しかし少しうれしそうな顔をして、「石井さんも、いよいよ原始仏教に近づいてきましたね」と言った。

(7日の続き)歩行瞑想のあと喫茶室でお茶を飲んだ。外は静かに雪が降り積もっていた。それを眺めながら、なぜか三人の子どもたちのことを思った。私と同じように無明を、しかしそれぞれの無明を生きていくだろう子どもたち。できれば無明を苦しんでほしくない。さまざまな劣等感や渇愛や囚われによる無明の生を苦しんで欲しくない。‥‥‥

そして気づいた。私が輪廻を繰り返したくないのは、無明の生を繰り返したくないということなのだ。無意識につき動かされるようにして無明を生きることの苦しみ、哀しみ。それを繰り返すことを少しも望んでいない自分に気づいたのである。

二階の座禅室へ行った。座禅のはじめに、参加者のひとりひとりに慈悲の瞑想をした。そして瞑想に入った。しだいに集中が深まった。さまざまなイメージ、そして性的な妄想すらあった。しかし、すっきりとした気分で瞑想を解いた。

座禅室の窓からは、裏手の木立やその向こうの集落が見下ろせた。雪が降り続けていた。無明の雪がいつまでも降り積もっていくのだと思った。と同時に、降り積もる無明の雪もやがて溶けていくことをどこかで感じていた。12月31日、大晦日の雪であった。

◆サティが続く
その夜、面接後の座禅は、深い集中の中でサティが続いた。最初は、面接の内容を反芻する思考が湧いたが、すぐに腹へのサティが連続し始めた。努力感なしにサティが続いた。腹の感覚がきわめてクリアで、その状態がずっと続いていく。一瞬、腹が巨大化し、その中に自分がいるようなイメージがあった。すぐに「イメージ」とサティすると実物大の腹に戻った。1時間後、就寝準備の鈴の音とともに、痛くなっていた足をほどいた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする