瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

シンクロ二シティー1(今日の日記)

2005年01月28日 | 心理
◆そのときにふさわしい本
いつも、次にどの本を読むかを決めるときは、多少迷う。その後の数日間の通勤電車のなかでどんな世界に出会うかは、かなり重要なことだ。その時々の自分にとっていちばん読むのにふさわしい本というのは、やはりあるような気がする。今の自分にとっていちばんふさわしい本を選ぼうと意識して次の本を選んでいる。

次に読もうと思ったのは、藤見幸雄の『痛みと身体の心理学』だ。そう決めたのは一昨日の夜だ。プロセス指向心理学への入門書といってよいかもしれない。ミンデルの世界をどれほど的確に伝えているか分からなかったが、久しぶりにミンデルの世界に触れて見たかった。瞑想合宿での体験が、よけいにそう感じさせたのかもしれない。ミンデルの翻訳された著作は、初期の大作『ドリームボディ』以外は読んだ。『ドリームボディ』を読むのは、もう少し後になるだろう。

◆身体症状と夢
昨日、通勤電車のなかで『痛みと身体の心理学』を読み始めた。読み始めるなり、たちまちミンデルの世界に引き込まれた。

長年にわたる夢分析の経験を通してミンデルは、一見マイナスに見える事象のなかに、意味や目的を見出す姿勢を身につけていた。夢に意味があるように、身体に現れる病にも意味があると考えた。身体症状と夢が、お互いにお互いを映し出す鏡のような関係にある。ミンデルは、身体症状のプロセスが夢に反映されていないケースには、一つも出会っていないとまでいう。

こういう考え方には深く共感する。「やはりミンデルはいいな」と思った。そのとき、この日の明け方に見た奇妙な夢を思い出した。それがまさに身体症状を反映した夢だったので、少しびっくりした。夢から覚めたときは、ただ変な夢だと思っただけで身体症状との関連をとくに意識しなかったのだが、この本を読むことで、その明らかな関連に気づいた。

夢の内容については、項をあらためて書く。
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瞑想合宿レポート18

2005年01月27日 | 瞑想合宿レポート
◆女王と一体に
結局、起床の午前4時まで眠らなかった。起床後の座禅は、あまりよくなかった。しかし、10日目は、朝食の時間で修行は終わる。実質9日目が修行の最終日だ。よくないなりに気持ちは真剣であった。朝食後も、よくなかったが、やはり必死の瞑想を続ける。

ダンマトークのあとも必死の瞑想をつづける。昼食時間に近くなったころの座禅のときであった。しばし夢のイメージのような妄想を追っていた。そのとき再びあの女子生徒の姿が浮かんだ。彼女が、両手を上にかかげている。なぜか彼女が女王の衣装に身を包んでいる。いや昔話の女王というより、美人コンテストの女王の衣装にも見えた。栄光に両手をかざしているのだ。「えっ、彼女が栄冠を?」と思った(失礼!)。と思う間もなく、その女王に私が重なっていった。またまた「なぜ、私が女王になるんだ」という戸惑いがあった。しかし、体には解放感が広がっていた。体がどんどんと弛み、楽になっていく。その解放感のなかで昼食の合図の鈴が鳴った。

他の参加者と列を作りつつ、ゆっくりと階段を降りて行く。「今のはなんだったのか」という思いが頭を占めている。それでも「離れた」「進めた」と足の動きにサティをしつつ階段を降りる。一瞬、キングのイメージが頭をかすめた。トランプのキングだった。そのイメージとともに「もう、これと対抗する必要はないんだ」という思いが走った。「そうだったんだ」という納得感があった。

◆王と女王
昼食の前半は、女王と一体になった体験と、キングのイメージのことが気になり、ほとんどサティにならなかった。しかし、体験の意味はいまやはっきりとした。私はずっと、自分のなかの女性的なものを嫌い、否定し、押さえつけて来たのだ。しかし、女性的なものは、最高度の男性的なもの(キング・王)となんら劣るものではない(女王)。まったく対等と見なしていいのだ。一連のイメージは、それを語っていた。私のなかの女性的なものを卑下せず、拒否せず、ありのままに受け入れるならば、優れて男性的なもの(キング)と自分の女性的なところを比較して劣等意識を持ったり、無理に対抗したりする必要はもうないのだ。むしろ王と女王とは一体なのだ。ここまで分かって、私はとても楽になった。自分のなかの女性的なものの、本当の受容が起こった感じがした。
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初心に帰って(今日の日記)

2005年01月26日 | 瞑想日記
日常生活のなかでどれだけサティを行っていけるかが、再び課題になっている。もちろん、瞑想合宿・リトリートの重要性、意味、効果はこれまで4回の合宿参加で充分に分かったが、だからといって日常をおざなりにしてよいわけではない。日常のサティをどれだけ深く持続的に行えるかがヴィパッサナー瞑想の、重要な部分であったはずだ。ヴィパッサナー瞑想にであったころは、日常生活でのサティをもっともっと真剣にやっていた。日常生活のなかでこそ瞑想を深めていくんだという意識を再度持って、修行していかなければならない。
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父の病気(今日の日記)

2005年01月26日 | 普通の日記
父は、82歳で普段は元気なのだが、ここ一週間ぐらい調子が悪かった。昨夕から下腹部が痛みだし、22時過ぎには痛みがひどくなったので、救急車を呼んだ。普段は元気なのだが、前立腺肥大があり、今回もそれが原因のようだった。幸い、この病気で以前入院した総合病院の救急外来が受け入れてくれるというので、そこへ運んでもらった。

ただ救急外来に泌尿器の専門医はおらず、レントゲンをとっても待たされただけで結局有効な処置はとれなかった。痛みは消えぬまま、帰宅は午前2時過ぎになったが、幸い痛み止めで朝まで眠った。

今日は、たまたま私が休みをとれる状況だったので、朝一で同じ病院に連れて行った。午後2時近くまで検査したが、まだ詳しい病状は分からない。3時近くに帰宅。その後は、痛み止めが効いたかぐっすりと眠りについた。
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瞑想合宿レポート17

2005年01月24日 | 瞑想合宿レポート
◆一度だけの嗚咽
9日目の夜中、午前2時過ぎだったろうか、あるいは3時に近かったかもしれない。足の先が寒くて目覚めた。毛布からはみ出していたらしい。目覚めてとくに何を考えていたという記憶はない。急に何かがこみ上げて来たことだけを覚えている。

「これまでずっとたった一人で苦しんできたんだな」と思った。一瞬、これまでに経験したことのない底冷えるような孤独と辛さを感じた。そして一度だけ嗚咽した。すると体がじわーと弛み、楽になった。ふわーっと溶けていくような感覚だった。気がつくと涙が頬を伝わっていた。何かしら抑圧が解けたという感覚があった。無明の凍りがひとつ溶けた。そのうれしさが弛んだ体に広がっていた。

すでに触れたが、若き日に友人に攻撃されて深く傷ついた。それに関連した別の記憶や、それらに共通した自分の根深い劣等感が見えはじめていたことも触れた。その抑圧が、ふいに目覚めた夜中の布団のなかで溶解したようだった。

◆ダンマの風
起き上がって座禅をしようかと思った。しかし「今は、頑張りモードじゃあないな」と思って、止めた。布団のなかで思った、様々な抑圧が、抑圧による苦しみが、そして抑圧の解けない人生同士の衝突による苦しみが、世界中に渦巻いている。国家や民族も、個々の人生と同じようにトラウマと抑圧の歴史をもち、抑圧を外部に投影してその敵と戦っている。無明が無明を生んで、延々と争いと苦しみの鎖が続いていく。

しかし、たとえ微かにせよ、ダンマの風も確実に吹いている。私のなかで凍てついていたものが溶けはじめたように、あちらこちらで何かが溶けていく確かな事実がある。凍てついた何かを溶かす力は、すべてダンマだ。誰かの一言でわずかに溶けるのも、深い衝撃とともに大きく溶けるのも、すべてダンマの力による。世界を貫いてそういう力が働いているのもまた事実だと思った。
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