引越しの後遺症からまだ立ち直れないでいる。書類や蔵書にたまった埃や蜘蛛の巣を払い、片付けにいそしむかたわらご近所への挨拶回りもしなければならない。人付き合いがいやだからこそ隠棲していたのに、急に陽の光を浴びたようで身体のリズムばかりか頭の回転まで妙にギクシャクしているような気がしてならない。
世に引越し魔と呼ばれる御仁がいるが、こうした人の頭の中はいったいどうなっているのだろう。
江戸川乱歩は晩年池袋に居を構えるまでに数十回の転居を繰り返したそうだし、かの葛飾北斎の変転振りも有名だ。思えば芸術家と呼ばれる人たちは実によく移動をする。
けれど乱歩先生が引越しのたびにその荷物の整理に頭を悩ましたなんて話は聞いたことがない。先生は資料収集魔ではあったが、大の整理魔でもあったのだ。先生ご自身がまとめた貼雑年譜なんてその真骨頂ではないだろうか。
怠け者には引越しは向いていない。それどころか勤勉でないものはそもそも芸術家には向いていないのだろう。
今年の2月、新潮文庫から高見浩の新訳でヘミングウェイの「移動祝祭日」が出て、それを少しずつ読んでいる。これまで45年前に出版された福田陸太郎訳で親しまれてきた作品だ。たしかこちらは岩波書店の同時代ライブラリーに入っている。
その巻頭の言葉はあまりにも有名である。
「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ」
「不運」にも私はパリで暮らしたことがないが、これを比喩ととらえれば、誰だって心の奥に「パリ」のようなものを持っているのに違いない。
そこで過ごしたこと、経験したことが心の拠り所となり、いつでもそこに帰っていける「場所=時間」のようなもの。
今月はじめの4日、かつて手塚治虫らが若き日を過ごし、いまや漫画の聖地として伝説にもなっている東京・椎名町にあった「トキワ荘」の記念碑が建てられ、その除幕式が関係者や多くのファンの集うなか挙行されたことが大きく報道された。
最初は記念碑と聞いていささか釈然としなかった。当の漫画家たちがどう受け止めるのだろうと疑問でもあったのだが、当日私も同じ場所にいて、関係者の皆さんが心から喜んでいるのを見て考えが変わった。
当時編集者だった丸山昭氏が話していたが、確かに昔は「漫画文化」などという言葉などなく、それどころか子どもに悪影響を及ぼすとばかり世の親には目の仇扱いにされていたのである。学校によっては、子どもに強制的に漫画本を拠出させ、それを校庭で焼いたという話まである。まさに焚書である。
そんな時代、トキワ荘に集った天才たちは世の蔑視を撥ね返し、互いに切磋琢磨しながら、時代を経ていまに残る傑作群を次々に生み出していった。それが今や日本が世界に誇るソフトパワーの源流となっているのである。
「トキワ荘」が天才を輩出する「装置」としてどのように機能したかというのはとても興味深いテーマであるけれど、とりあえずここではふれない。
それよりも、「トキワ荘」がそこに関わった人々にとって、忘れることのできない「移動祝祭日」であったということが、私にはなにより感慨深い。
一人の手塚治虫、一人の赤塚不二夫の後ろには、ヒット作を生み出せずに挫折していった100人、1000人の漫画家たちがいたはずである。
そんな彼らにも「トキワ荘」という叶わぬ「夢」が、ヘミングウェイにおける「パリ」のようなものとして、たとえどこに移動しようとついて回っているのに違いない。
そう考えると何だか胸が熱くなる。
世に引越し魔と呼ばれる御仁がいるが、こうした人の頭の中はいったいどうなっているのだろう。
江戸川乱歩は晩年池袋に居を構えるまでに数十回の転居を繰り返したそうだし、かの葛飾北斎の変転振りも有名だ。思えば芸術家と呼ばれる人たちは実によく移動をする。
けれど乱歩先生が引越しのたびにその荷物の整理に頭を悩ましたなんて話は聞いたことがない。先生は資料収集魔ではあったが、大の整理魔でもあったのだ。先生ご自身がまとめた貼雑年譜なんてその真骨頂ではないだろうか。
怠け者には引越しは向いていない。それどころか勤勉でないものはそもそも芸術家には向いていないのだろう。
今年の2月、新潮文庫から高見浩の新訳でヘミングウェイの「移動祝祭日」が出て、それを少しずつ読んでいる。これまで45年前に出版された福田陸太郎訳で親しまれてきた作品だ。たしかこちらは岩波書店の同時代ライブラリーに入っている。
その巻頭の言葉はあまりにも有名である。
「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ」
「不運」にも私はパリで暮らしたことがないが、これを比喩ととらえれば、誰だって心の奥に「パリ」のようなものを持っているのに違いない。
そこで過ごしたこと、経験したことが心の拠り所となり、いつでもそこに帰っていける「場所=時間」のようなもの。
今月はじめの4日、かつて手塚治虫らが若き日を過ごし、いまや漫画の聖地として伝説にもなっている東京・椎名町にあった「トキワ荘」の記念碑が建てられ、その除幕式が関係者や多くのファンの集うなか挙行されたことが大きく報道された。
最初は記念碑と聞いていささか釈然としなかった。当の漫画家たちがどう受け止めるのだろうと疑問でもあったのだが、当日私も同じ場所にいて、関係者の皆さんが心から喜んでいるのを見て考えが変わった。
当時編集者だった丸山昭氏が話していたが、確かに昔は「漫画文化」などという言葉などなく、それどころか子どもに悪影響を及ぼすとばかり世の親には目の仇扱いにされていたのである。学校によっては、子どもに強制的に漫画本を拠出させ、それを校庭で焼いたという話まである。まさに焚書である。
そんな時代、トキワ荘に集った天才たちは世の蔑視を撥ね返し、互いに切磋琢磨しながら、時代を経ていまに残る傑作群を次々に生み出していった。それが今や日本が世界に誇るソフトパワーの源流となっているのである。
「トキワ荘」が天才を輩出する「装置」としてどのように機能したかというのはとても興味深いテーマであるけれど、とりあえずここではふれない。
それよりも、「トキワ荘」がそこに関わった人々にとって、忘れることのできない「移動祝祭日」であったということが、私にはなにより感慨深い。
一人の手塚治虫、一人の赤塚不二夫の後ろには、ヒット作を生み出せずに挫折していった100人、1000人の漫画家たちがいたはずである。
そんな彼らにも「トキワ荘」という叶わぬ「夢」が、ヘミングウェイにおける「パリ」のようなものとして、たとえどこに移動しようとついて回っているのに違いない。
そう考えると何だか胸が熱くなる。