弓浦市
2009-04-19 | 読書
トキワ荘ネタをもう一つ。
実は私は、トキワ荘ゆかりの漫画家M先生の作品を舞台化した作品に出演したことがあるのだ。それもミュージカル(!)。遡ること30数年も以前のことである。私もティーンエージャーだったが、今年70歳になろうという先生もその頃は30歳台半ばだったわけだ。
アングラ俳優が何故・・・とは私自身が聞きたいくらいだが、劇団のメンバーがその舞台製作のスタッフと知り合いだった関係であれよという間に手伝う羽目になっていたのだ。
まあ、そんな経緯はともあれ、その舞台に出演した事は自分のキャリアにはならないまでも、M先生と関わりができて、その自宅に造られた完全防音のスタジオで稽古にいそしんだ日々の事はそれなりに懐かしく密かな自慢でもあった。
今月4日、トキワ荘の記念碑が建立され、その除幕式が行われ多くのファンや関係者が集まったことはすでに書いたが、その時に当のM先生に挨拶する機会があった。
名刺を交わしながら、実は・・・と自己紹介した私のことを先生が覚えているはずもない。それは当然のことなのだ。私はといえば、30年以上も前の一時期に出入りした大勢の若者の一人に過ぎなかったのだから。
「あら、何の役をなさったのかしら?」と言いながら、先生は胡乱な眼差しで遠くを見つめるようだ。
このような話はそれこそたくさんあるだろう。
一方ではそれこそ人生における掛け替えのない体験や記憶が、別の人にとっては取るに足らないただすれ違っただけのエピソードに過ぎないといったようなことが・・・。
と、これはただの前フリであって、なにも自分のことを書こうとしたわけではない。
こうした記憶にまつわる出色の短編小説として有名な「弓浦市」を最近読み直して、やはり凄いなあと改めて感嘆したことを書きたかったのである。作者は、「移動祝祭日」の作家ヘミングウェイと同年生まれの文豪、川端康成。
この小説は様々なアンソロジーに収録されているけれど、これを最初に読んだのは相当昔のことである。
わずか原稿用紙20枚程度の掌編でありながら、読後感はずっしりと重い。以来その影響下、それに匹敵するものをと思いながら、何十年も経ってしまった。
無論、これを芝居にしたり映像化したりすることはできないだろう。言葉によってこそ構築できる不可思議な世界がここにはある。
・・・小説家の香住のもとをある初老の婦人が訪ねてくる。見覚えのない相手だったが、婦人は懐かしそうに彼の顔を見つめ、30年も昔、九州の弓浦の町で彼女の部屋を訪れ、彼女に求婚までしたという香住との思い出を語る・・・。だが、彼にはその記憶がまったくないのだ。
香住はその年齢にしては人並み外れて記憶力が衰耄しており、それを自覚しているだけ、こうしたときの不安に恐怖が加わってくる・・・。
・・・弓浦という町で香住に邂逅した過去は、婦人客には強く生きているらしいが、罪を犯したような香住には、その過去が消え失せてなくなっていた。・・・
婦人客の帰ったあと、日本の詳しい地図を広げ、全国市町村名を検索したが、弓浦という地名の市は、九州のどこにも見当たらない。
彼は、婦人の話を半信半疑で聞きながら、自分の頭もおかしいと思わないではいられない。
「・・・弓浦市という町さえなかったものの、香住自身には忘却して存在しないが、他人に記憶されている香住の記憶はどれだけあるか知れない。」・・・と。
人の記憶ほど奇怪で怖ろしいものはないのかも知れない。実体がないのに、それは紛れもなく「存在」するからだ。
また、逆もあり得るだろう。実体はあるのに、まるで存在しないような記憶=過去。
ある人との思い出を大切に慈しむ私のことを、当の相手はまるきり忘却しているということ、あるいは忌まわしい記憶として消し去っているというようなことが・・・。
それはそれで、哀しい私の記憶となっていつまでも生き続ける。
実は私は、トキワ荘ゆかりの漫画家M先生の作品を舞台化した作品に出演したことがあるのだ。それもミュージカル(!)。遡ること30数年も以前のことである。私もティーンエージャーだったが、今年70歳になろうという先生もその頃は30歳台半ばだったわけだ。
アングラ俳優が何故・・・とは私自身が聞きたいくらいだが、劇団のメンバーがその舞台製作のスタッフと知り合いだった関係であれよという間に手伝う羽目になっていたのだ。
まあ、そんな経緯はともあれ、その舞台に出演した事は自分のキャリアにはならないまでも、M先生と関わりができて、その自宅に造られた完全防音のスタジオで稽古にいそしんだ日々の事はそれなりに懐かしく密かな自慢でもあった。
今月4日、トキワ荘の記念碑が建立され、その除幕式が行われ多くのファンや関係者が集まったことはすでに書いたが、その時に当のM先生に挨拶する機会があった。
名刺を交わしながら、実は・・・と自己紹介した私のことを先生が覚えているはずもない。それは当然のことなのだ。私はといえば、30年以上も前の一時期に出入りした大勢の若者の一人に過ぎなかったのだから。
「あら、何の役をなさったのかしら?」と言いながら、先生は胡乱な眼差しで遠くを見つめるようだ。
このような話はそれこそたくさんあるだろう。
一方ではそれこそ人生における掛け替えのない体験や記憶が、別の人にとっては取るに足らないただすれ違っただけのエピソードに過ぎないといったようなことが・・・。
と、これはただの前フリであって、なにも自分のことを書こうとしたわけではない。
こうした記憶にまつわる出色の短編小説として有名な「弓浦市」を最近読み直して、やはり凄いなあと改めて感嘆したことを書きたかったのである。作者は、「移動祝祭日」の作家ヘミングウェイと同年生まれの文豪、川端康成。
この小説は様々なアンソロジーに収録されているけれど、これを最初に読んだのは相当昔のことである。
わずか原稿用紙20枚程度の掌編でありながら、読後感はずっしりと重い。以来その影響下、それに匹敵するものをと思いながら、何十年も経ってしまった。
無論、これを芝居にしたり映像化したりすることはできないだろう。言葉によってこそ構築できる不可思議な世界がここにはある。
・・・小説家の香住のもとをある初老の婦人が訪ねてくる。見覚えのない相手だったが、婦人は懐かしそうに彼の顔を見つめ、30年も昔、九州の弓浦の町で彼女の部屋を訪れ、彼女に求婚までしたという香住との思い出を語る・・・。だが、彼にはその記憶がまったくないのだ。
香住はその年齢にしては人並み外れて記憶力が衰耄しており、それを自覚しているだけ、こうしたときの不安に恐怖が加わってくる・・・。
・・・弓浦という町で香住に邂逅した過去は、婦人客には強く生きているらしいが、罪を犯したような香住には、その過去が消え失せてなくなっていた。・・・
婦人客の帰ったあと、日本の詳しい地図を広げ、全国市町村名を検索したが、弓浦という地名の市は、九州のどこにも見当たらない。
彼は、婦人の話を半信半疑で聞きながら、自分の頭もおかしいと思わないではいられない。
「・・・弓浦市という町さえなかったものの、香住自身には忘却して存在しないが、他人に記憶されている香住の記憶はどれだけあるか知れない。」・・・と。
人の記憶ほど奇怪で怖ろしいものはないのかも知れない。実体がないのに、それは紛れもなく「存在」するからだ。
また、逆もあり得るだろう。実体はあるのに、まるで存在しないような記憶=過去。
ある人との思い出を大切に慈しむ私のことを、当の相手はまるきり忘却しているということ、あるいは忌まわしい記憶として消し去っているというようなことが・・・。
それはそれで、哀しい私の記憶となっていつまでも生き続ける。