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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

ニューヨーク,アイラブユー

2010-03-17 | 映画
 日比谷の映画館で「ニューヨーク,アイラブユー」を観る。
 私の周りにいる若い人の間ではあまり評判は芳しくないようなのだけれども、街そのものをテーマに一編の撮影期間が2日間という制約のもと切り取られた10+の視点からなるこのフィルムは、それなりに面白く楽しめることのできる作品なのだった。

 製作者のエマニュエル・ベンビイが言うように、この映画は「1本の長編がたまたま複数の監督よって撮られたような作品」である。
 世界各国から集まった11人の監督によって撮られた11のストーリー・・・。日本からは岩井俊二が参加している。
 脚本に関してはいくつかのルールがあったようだ。いわく、
 ○視覚的にニューヨークと特定できるようであること
 ○広い意味での愛の出会いが描かれていること
 ○ストーリーの終わりや始まりに「徐々に暗転」を用いないこと などなど。

 それぞれの監督がそれぞれのストーリーを勝手に作ったようでいながら、それが1本の映画としてまとまって見えるのは、もちろん個々の話をつなぐようなエピソードを挿入し、それぞれの登場人物が偶然にもすれ違って同じ画面上に映し出されるといった仕掛けがあるからではあるが、そればかりではなく、この映画の主役がなんと言ってもニューヨークという街そのものであることが大きいのだろう。
 加えて、一見無関係に投げ出されたように見える映像も、それを連続してつなげることで一定の秩序や効果が表れるという表現の特質に拠るのではないかと思える。

 これは小説や演劇など他の表現形式でも可能は可能だろうが、映画ほど柔軟にはいかないだろう。もちろん小説ではジェイムス・ジョイスの「ダブリン市民」をはじめ、フォークナーやマルケス、中上健次など、特定の地域に限定して展開される連作という先例はいくつもあるわけだけれど。

 それにしても、この作品における登場人物たちの喫煙率の高さはどうだろう。
 昨今の映画の中では群を抜いていると思えるほどだが、屋内施設での禁煙化、嫌煙化の進みつつあるニューヨークの街では、いきおい愛煙家の登場人物たちは建物の外や路上で寒風に身をすくませながら紫煙を冷たい空気とともに吸い込むことになる。
 けれど、そのおかげで何百万人ものニューヨークを行き交う見知らぬ男女の何組かが偶然に出会い、街の灯やビル群の夜景を背景とした物語がフィルムに写し撮られることになる。
 タバコは、この映画にとってはまさにうってつけの道具だったといえるのだろう。