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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

スポーツと政治と映画

2010-03-20 | 映画
 もうひと月も前に観ていながら、いまだに感想を書けないでいる映画がある。
 クリント・イーストウッド監督作品「インビクタス 負けざる者たち」だ。
 先日の米国アカデミー賞主演男優賞にモーガン・フリーマンが、助演男優賞にマット・デイモンがそれぞれノミネートされていたのでご存知の方も多いだろう。
 封切り直後の新聞評では、「今年有数の傑作」と早々と断言する評者もいたほどだ。それは、イーストウッド監督への無条件といってよい信仰の告白に似ていた。
 南アフリカに誕生したマンデラ大統領がラグビーのワールドカップを通して、黒人と白人の融合、さらには国家の統合を果たそうとする過程を描いたこの作品は、ラグビー試合の巧みな映像化やCG加工された観客席の熱狂ぶりと相俟ってたしかに映画的興奮を観るものにもたらすに違いない。
 しかし、そこに何ともいえない既視感と違和感のあることも否定できない。
 これは、紛れもなくスポーツの政治利用を正当化することを前提とした娯楽映画なのだ。

 青白い神経やこんがらがった思想は大衆向けの映画にはなじまないが、美しく躍動する筋肉は映像化にうってつけの素材である。
 たとえば、レニ・リーフェンシュタールの「民族の祭典」「美の祭典」は、その映像があまりに美しいがゆえに、政治と映画、映画とスポーツの関係において極めて傑出しつつも《危険》な作品だったのである。
 私たちは、文化芸術が政治に《利用》されるようなことがあってはならないと考えている。それはいつのまにか身についた信仰でもある。
 ヒトラーをはじめとする独裁者に許されないことが、マンデラ大統領には許されるとどうして考えることができるだろう。

 スポーツ(ラグビー)によって、南アフリカは真に統合されたのか。この映画「インビクタス」によって世界はどのようなメッセージを受け、何を感じ、どのように変化したのか。あるいは映画は所詮娯楽でしかなく、世の中を変革するなどというのは妄想に過ぎないのか・・・。
 この映画は、実に厄介な問題を私たちの前に提示しているのである。

 話は変わって、いまホットな話題となっているのが、今般の米アカデミー賞で長編ドキュメンタリー賞を獲得した「ザ・コーヴ」である。
 高度な隠し撮りの技術を駆使し、日本のイルカ漁を記録したこの映画は、「略奪と汚染で生物が危険にさらされている海のことを考えてほしい。日本だけではなく、みんなの問題だ」と監督が発言する一方、映画を観た地元の人からは、「太地の景色を美しく撮り、住民はこんなに残酷なことをしていると巧妙に対比していた」「映画は一方的で紳士的ではない」との意見も聞かれる。
 
 はじめに主張があり、シナリオに合う場面を当てはめた映像で構成されたドキュメンタリーとの見方は一方的に過ぎるかも知れないが、もし仮にそうした面が多少なりとも否定できないとするならば、これまた美しい映像が政治的主張に奉仕した作品と言えなくもない。

 「ザ・コーヴ」もまた、厄介な問題を私たちの前に提示した映画なのである。