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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

今日もあちらこちら

2010-07-11 | 日記
 ミュージカル「ひめゆり」を観た話は前回書いたばかりだが、上演会場の劇場「シアター1010」にはその建築途中に見学をさせていただいた思い出があり、なつかしく感じた。
 あれはもう5年以上も前になるのか。当時、ある劇場の建設にスタッフの一人として関わっていたことから、再開発手法による建築のあり方やら他のテナントとの合築による方法やら勉強する必要があったのだ。
 オープニングセレモニーにも顔を出させていただいたのだが、あれからいろいろなことがあったのだなあと改めて感じてしまった。
 劇場の床の傷にもすでに歴史が刻まれているのを見て、過ぎ行く時の酷薄さを感じたものだ。

 さて、昨日、7月10日は選挙戦の最終日。
 池袋東口駅頭でどこやらの党首が大演説をぶちあげているのを横目に、ノンフィクション作家で地域雑誌「谷中・根津・千駄木」の編集人である森まゆみさんの話を聞く少人数の会に参加した。
 あしかけ27年続いたという「谷中・根津・千駄木」は昨秋終刊となったが、「終わったのではなく、違った形で進んでいく」のだとのこと。
 文庫にもなっている著書「谷根千の冒険」を読むと、地域雑誌というフィールドや仲間とのコラボレーションが一人の女性を作家として鍛え上げていく基盤となっていたことがよく分かる。
 プライド・オブ・プレイス(町の誇り)を取り戻すための戦いの記録でもあるこの著作は、町おこしや文化政策をめざすあらゆる人々にとって必読の教科書になり得るものだと思う。

 さて、投票日となった今日のこと、その谷根千の根津とは無関係ながら、南青山の根津美術館に「いのりのかたち~八十一尊曼荼羅と仏教美術の名品」展を観に行った。
 美術館の持つ公共的役割については改めていうまでもないことなのだけれど、こうした私的コレクションの厚みや建築物としての美術館の素晴らしさをまざまざと見るにつけ、「公」の担い手のあり方について深く考えざるを得ない。
 事業仕分けに伴う一連の騒動や、政権が不安定になることによる文化政策の方向性への影響等を考えると、いっそ国や自治体は文化行政から潔く手を引くべきなのではないだろうかとさえ思えるのだ。
 もともとそこには、明確な方向性などなかったのかも知れないのだが。

ミュージカル「ひめゆり」を観る

2010-07-11 | 演劇
 以前、舞台でご一緒したuniちゃんからご案内をいただいて、彼女が出演している北千住の劇場シアター1010で上演中のミュージカル「ひめゆり」を観に行った。
 ミュージカル座の創立15周年記念公演、終戦65年特別企画と銘打った作品で、タイトルから分かるとおり、太平洋戦争末期の沖縄で犠牲となった「ひめゆり学徒隊」の悲劇を描いている。
 脚本・作詞・演出・振付:ハマナカトオル、作曲・編曲・音楽監督:山口也、出演:知念里奈、岡幸二郎、井料瑠美、原田優一ほか。

 私はフレッド・アステアのファンを自認しながら、実のところミュージカルの舞台には縁遠いまま今に至ってしまっている。今回の舞台も案内をもらわなければおそらく足を運ぶことはなかったと思うけれど、さすが10年以上にわたって再演を重ねてきた作品だけによく練り上げられていると感じた。
 何よりも、沖縄の人々の目線で戦争の悲劇や日本軍人の非道さも明確に描かれている点は特筆に価するだろう。
 戦争を題材とした作品において、何を描き、何を描かないか、視点をどこにおくかは、常に極めて難しく重要な問題なのだ。

 そこで考えたのが、こうした悲劇を描くのに、ミュージカルという表現形式の持つ特質が意外にも適しているのではないかということだ。

 今回の音楽伴奏は録音によるものだったが、それが生演奏であった場合にも、芝居の進行がスコアのリズムとテンポによって統御されることで、俳優の不必要な情感のために劇が間延びしたり弛緩したりする弊害から免れることに役立っていると思えるのだ。
 たとえば岡幸二郎は、ひめゆり部隊や一般島民とともに逃げ込んだ洞窟のなかで、敵兵に見つかるというだけの理由で泣き止まない赤子を捻り殺したうえ、その母親を射殺する卑劣な兵隊を演じていたが、これがストレートプレイであれば、その俳優は役に感情移入するために相当な努力を要したことだろう。
 ミュージカルの場合には、音符によって導かれた歌唱を通した登場人物の造形を行うことで、不要な役づくりに悩む必要がなく、自身を客体化することが比較的容易にできるのではないかと思えるのだ。

 観客にとっても、そこで観たことによる感情の異物感を沈殿させることなく、音楽によって浄化して劇場をあとにすることができる。しかも、描かれたテーマは結晶化されて心に残る。
 戦争の悲劇を描くのにミュージカルこそ相応しいという発見は新鮮だ。