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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

世論と娯楽

2010-07-13 | 日記
 選挙が終わって、またぞろ責任論やら首のすげかえやらこの何年かすっかり見馴れたどたばたの議論が沸き起こりつつある。
 マスコミが面白おかしくまき散らす世論調査や支持率などという訳の分からない数字に人々は引き摺り回される。政権は一向に安定せず、それがどれほど本当に国民のためなのか分からない足の引っ張り合いを人々は胡乱な目つきでただ眺めるだけである。

 「世論はつねに私刑である。私刑はつねに娯楽である。」(芥川龍之介「侏儒の言葉」)という言葉を最近何度か目にした。
 たしかに昨今の政治ショーはそんな様相を呈している。
 私たちもそんな娯楽から一時も早く目をそむけ、まともな議論を始めなければならない。 必要なのはそのための真実の情報である。

 そんな選挙騒動のなか、劇作家・演出家のつかこうへい氏逝去の報が流れた。まだまだ若い62歳である。間違いなく一つの時代を創った才能がまた消えた。
 実に多くの俳優を育て、後に続くあまたの劇作家や演出家に影響を与えた人だから、新聞各紙にも著名人のコメントがたくさん掲載されている。

 私がようやく20歳で自分たちの劇団を作った頃、つかさんは若干25歳で「熱海殺人事件」により岸田戯曲賞を受賞して時の人となっていた。
 その影響力は実に大きくて、その頃雨後のタケノコのように生まれた劇団の役者たちの演技がみなどれも平田満や三浦洋一の演技の物真似のようだったのに辟易した覚えがある。
 それでも青山のVAN99ホールで観た「ストリッパー物語」や紀伊国屋ホールで観た加藤健一が入団後の「熱海殺人事件」には新しい時代の熱気や息吹を感じたものだ。
 それも今は昔の話である。

 つかさんの芝居づくりには、役者を育てる機能がたしかにあると感じる。小手先の器用さを求めるのではなく、その人間の生きざまなどといういささか時代錯誤的な言葉を背景にした感情表白を否応なく強いる部分がそれであり、役者というものは成長の過程で一度はそこを通り抜ける必要があると今でも私は思っている。
 もっとも、そこから次のステップに進んでいけるかどうかはその役者自身の努力や天分が答えを出す領域なのでもある。

 つかこうへいの芝居が今の時代にどういう意味を持つのか、その評価は難しい。
 その言葉や俳優の身体から放射される熱が今も昔のように観客の心に響くとは限らないからだ。
 時代はあまりに変わってしまった。