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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

さよなら渓谷

2013-08-05 | 読書
 吉田修一著「さよなら渓谷」を読んだ。
 刊行されてからすでに5年が経っているのだが、これまで手に取る機会がなかった。今回読む気になったのはもちろん映画化された作品が話題になり、とりわけ主演の真木よう子の映像の鮮烈さに引き付けられたからである。(要はただのミーハーに過ぎない、ということ)
 そうは言いながら、吉田修一の作品はこの半年に読んだ「悪人」、「路」をはじめ、思い返せば16年前の文學界新人賞受賞作品「最後の息子」、11年前の芥川賞受賞作品「パークライフ」もリアルタイムで読んできた。その成長ぶりを身近に感じてきた作家の一人なのである。
 その作品の多くが映画化、ドラマ化されているように、人々の興味を惹くストーリー展開のうまさ、題材の強烈さなど、映像の撮り手の意欲を掻き立て、刺激する何かを吉田修一の小説は持っているのに違いない。

 さて、今回の作品は、秋田県で起こった連続児童殺人事件の容疑者を思わせる女性のクローズアップに始まり、それに群がるマスコミ報道の喧騒から、やがてその隣家に住む平凡などこにでもいそうな若い夫婦に焦点があてられ、そのことによって15年前に起こったある事件が浮かび上がるという趣向。
 非常に説明しにくく、自分でも口ごもってしまうという作者の言葉を引用して、すごく乱暴に言ってしまえば、本作は「レイプ事件の加害者と被害者が、15年の歳月を経て、夫婦のように暮らしている日常を描いた小説」なのであり、そこに至る二人の葛藤と苦しみ、そしてこれからの人生の行く末への興味と不安が読む者の心に楔となっていつまでも突き刺さるような作品である。
 文芸誌ではなく、週刊誌に連載された作品ということだから、純文学というよりはむしろエンターテイメント性を意識して書かれた小説であろうとは思うのだが、読後感はずっしりと重く、主人公二人の人生がいとおしくて堪らなくなる。

 それにしても吉田修一はうまい作家になったなあとつくづく思う。
 滑らかなカメラワークを思わせる叙述、カットバックや回想シーンの挿入、登場人物の独白を自在に組み合わせながら物語は展開され、読み手を導いていくのだ。その渓谷へと。
 胸をえぐるような忘れられない言葉のいくつかを引用する。(以下、ネタバレ必須。ご容赦)

 ……電話ボックスのガラス越しに、どれくらい対峙していただろうか。ボックスから出てきた夏美が、「お金、貸して」と小声で言った。
 ……あの日、夏美は千円も持っていなかった。千円も持たずに実家を飛び出していた。すぐに財布を出した。財布に入っているだけの金を差し出した。
 気がつけば、「すいませんでした。ごめん……。ごめんなさい」と何度も謝っていた。
 「……死ねないのよ」
 とつぜん夏美は言った。そう言って涙を堪え、差し出した金をくしゃくしゃにしながら自分の財布に押し込んだ。

 ……あの夜から、いったいどれくらいの月日が流れたのか。
 「なんでもしてくれるって言ったじゃない。そう何度も手紙に書いてたじゃない!」
 銀座の並木道で、夏美は叫んだ。
 「なんでもしてくれるんでしょ! だったら私より不幸になりなさいよ! 私の目の前で苦しんでよ!」
 気がつけば、泣きじゃくる夏美の手を引いて、走ってきたタクシーに乗り込んでいた。
 家へ連れて帰るつもりだったのか。
 二人でどこかへ逃げるつもりだったのか。
 一緒に死のうとでも言うつもりだったのか。

 ……一緒にここで暮らそうと言い出したのは、私からです。
 私は誰かに許してほしかった。あの夜の若い自分の軽率な行動を、誰かに許してほしかった。でも……、でも、いくら頑張っても、誰も許してくれなかった……。
 私は、私を許してくれる人が欲しかった。

 ……銀行から最後の二十万円を引き出してきた尾崎は、「あとは、あなたが決めて下さい」って言いました。私は、「どうしても、あなたが許せない」と言いました。「私が死んで、あなたが幸せになるのなら、私は絶対に死にたくない」と。「あなたが死んで、あなたの苦しみがなくなるのなら、私は決してあなたを死なせない」と。「だから私は死にもしないし、あなたの前から消えない。だって、私がいなくなれば、私は、あなたを許したことになってしまうから」と。

 (思わず長々と引用してしまいました。ご容赦。)
 さて、あなたの前から消えない、と言っていた女は、最後に男の前から突然のように姿を消す。それが、許しを意味することなのかどうか、誰にも分からないまま。
 しかし、男はどんなことをしてでも女を見つけ、探し出そうとするだろう……。
 何故か。それが彼の罪だから、あるいは愛だからなのか。誰からも許してもらえなかった二人が、最後に行き着く場所がお互いのもとでしかないことを男も女も感じ取っているからなのか。
 やがて、長い長い年月が過ぎてゆき、二人の道行きは誰の記憶からも次第に薄れていくのだろう。
 そうしていつしか、「昔、男ありけり」「女ありけり」といった遥か昔むかしの恋物語のように、この二人の運命も語られるようになるのかも知れない……。

 余談。
 ふと思ったのだが、レイプ事件の被害者と加害者という、このあまりに立場の違う二人、違いすぎるが故にそっくりな二人、違いすぎるがゆえにあまりに近しい二人、一緒にいる限り憎むしかない相手、許すためには離れなければならず、愛するためには別れなくてはならない、そんな二人の関係に、最近ことに歴史認識に起因して緊張が高まりつつある近くて遠い国々と私たちの絵姿が映し出されているように感じたのは、まるで見当はずれなことだろうか。