高瀬隼子氏の小説「おいしいごはんが食べられますように」(芥川賞受賞作)はかなり前に掲載された雑誌で読んだのだったけれど、感想を言葉に出来ないまま時間が経ってしまい、そのことが気になっていた。
とても面白く一気に読んだのだったが、そのまま消化してしまうことが出来ずに胃の中でもっとしっかり咀嚼せよと食べたものが主張している、そんな感じなのである。
人間は生まれてきた時から《死》が運命づけられているのと同様、《ごはん》を食べることからは誰も逃れられない。その意味で《死》と《ごはん》は同義なのかも知れない。このことは思いのほか深い哲学的テーマを内包した小説であることを示しているようにも感じるのだ。
本作は、食品や飲料のラベルパッケージの製作会社で全国に13の支店がある、その一つである小さな職場内の人間関係を描いている。
ところで、どんな《ごはん》をおいしいと感じるかは人それぞれであって、個々の価値観によって大きく異なるのだが、その《ごはん》というフィルターを通して職場の人間関係が立体的に描かれるのがこの小説なのである。秀逸な作品だ。
職場には実にさまざまな人がいて、ある時は反目したり、同情したり、同調したり、抑圧したり、悪口を言ったり言われたりと、その時々の反応が人間関係を綾なして職場を居心地良くしたり、居たたまれない環境を生んだりする。
もちろん、それはそこにいる人間個々の性格や生育過程で身にまとった生活習慣のようなものが、相手との関係で化学反応を起こすようなものかも知れないのだが、この小説では、登場人物一人ひとりの《ごはん》に対する感じ方の違いが、その人間をシンボリックに表現しているという点に私は面白さを感じたのだったが、これは的外れだろうか?
たとえば主要な登場人物の一人、「二谷」であるが、彼は「おれは、おいしいものを食べるために生活を選ぶのが嫌なだけだよ」と言い、おでんを食べたいと思っても、そのためにおでん屋まで行くのは、自分の時間や行動が食べ物に支配されている感じがして嫌と言い、コンビニがあるならそれで済ませたい、と考える人間だ。
私自身、若い頃はこの「二谷」と同様の考えだったこともあり、思わず頷いてしまったのだが、このほかにも、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃないの」と言った高貴な人のように、《ごはん》とケーキを同等以上のものと考えて、職場での評価を取り戻そうとばかりにお菓子作りにいそしむ人がいれば、それを嫌悪する人もいる。
人間関係の間には常に《ごはん》が介在し、それがシンボリックな役割を果たすのである。
さて、この小説では、登場人物が一人称、三人称と入れ替わりながら語られるのだが、それが奇妙なズレとなって客観と違和を読み手に同時に感じさせる。
二谷以外の人物がみな「○○さん」とさんづけで呼ばれるのも不要な親密感を拒絶する効果を生んでいるようだ。乾いたユーモアが人間関係の冷徹な腑分けを包んで絶妙である。
ところでこの「おいしいごはんが食べられますように」というのは、自分のためのおまじないのようなものだろうか。誰かが誰かのために発する祈りのようなものなのだろうか。
よくよく考えれば、不思議な言葉だなあと感じてしまう。
あるいはそれは、どこか高いところから、職場の人間関係に右往左往し、疲れてしまった人間たちに同情して《ごはん》の神様が投げかける呟きなのかも知れない。
とても面白く一気に読んだのだったが、そのまま消化してしまうことが出来ずに胃の中でもっとしっかり咀嚼せよと食べたものが主張している、そんな感じなのである。
人間は生まれてきた時から《死》が運命づけられているのと同様、《ごはん》を食べることからは誰も逃れられない。その意味で《死》と《ごはん》は同義なのかも知れない。このことは思いのほか深い哲学的テーマを内包した小説であることを示しているようにも感じるのだ。
本作は、食品や飲料のラベルパッケージの製作会社で全国に13の支店がある、その一つである小さな職場内の人間関係を描いている。
ところで、どんな《ごはん》をおいしいと感じるかは人それぞれであって、個々の価値観によって大きく異なるのだが、その《ごはん》というフィルターを通して職場の人間関係が立体的に描かれるのがこの小説なのである。秀逸な作品だ。
職場には実にさまざまな人がいて、ある時は反目したり、同情したり、同調したり、抑圧したり、悪口を言ったり言われたりと、その時々の反応が人間関係を綾なして職場を居心地良くしたり、居たたまれない環境を生んだりする。
もちろん、それはそこにいる人間個々の性格や生育過程で身にまとった生活習慣のようなものが、相手との関係で化学反応を起こすようなものかも知れないのだが、この小説では、登場人物一人ひとりの《ごはん》に対する感じ方の違いが、その人間をシンボリックに表現しているという点に私は面白さを感じたのだったが、これは的外れだろうか?
たとえば主要な登場人物の一人、「二谷」であるが、彼は「おれは、おいしいものを食べるために生活を選ぶのが嫌なだけだよ」と言い、おでんを食べたいと思っても、そのためにおでん屋まで行くのは、自分の時間や行動が食べ物に支配されている感じがして嫌と言い、コンビニがあるならそれで済ませたい、と考える人間だ。
私自身、若い頃はこの「二谷」と同様の考えだったこともあり、思わず頷いてしまったのだが、このほかにも、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃないの」と言った高貴な人のように、《ごはん》とケーキを同等以上のものと考えて、職場での評価を取り戻そうとばかりにお菓子作りにいそしむ人がいれば、それを嫌悪する人もいる。
人間関係の間には常に《ごはん》が介在し、それがシンボリックな役割を果たすのである。
さて、この小説では、登場人物が一人称、三人称と入れ替わりながら語られるのだが、それが奇妙なズレとなって客観と違和を読み手に同時に感じさせる。
二谷以外の人物がみな「○○さん」とさんづけで呼ばれるのも不要な親密感を拒絶する効果を生んでいるようだ。乾いたユーモアが人間関係の冷徹な腑分けを包んで絶妙である。
ところでこの「おいしいごはんが食べられますように」というのは、自分のためのおまじないのようなものだろうか。誰かが誰かのために発する祈りのようなものなのだろうか。
よくよく考えれば、不思議な言葉だなあと感じてしまう。
あるいはそれは、どこか高いところから、職場の人間関係に右往左往し、疲れてしまった人間たちに同情して《ごはん》の神様が投げかける呟きなのかも知れない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます