会期末が迫っているということで、東京ステーションギャラリーで開催中の「東北へのまなざし」展を見に行った。
昭和のはじめ、1930年代、40年代において、先端的な意識をもった人々が相次いで東北地方を訪れ、この地の建築や生活用品に注目した。
こうした東北に向けられた複層的な「眼」を通して、当時、後進的な周縁とみなされてきた東北地方が、じつは豊かな文化の揺籃であり、そこに生きる人々の営為が、現在と地続きであることを改めて検証するもの、と展覧会のチラシには書かれている。
ドイツの建築家ブルーノ・タウトや民藝運動を展開した柳宗悦、考現学の祖として知られる今和次郎や「青森県画譜」を描いた弟の今純三の仕事などが紹介されていて、それぞれに興味深いのだが、その中で、特に私の目当てだったのは東北生活美術研究会を主導した福島出身の画家吉井忠の仕事だった。
吉井忠ははじめ前衛的な作風をめざしたが、のちに「土民派」と称するように人々の生活にねざした姿を描くようになった。
1936年から37年にかけて渡欧、ピカソの「ゲルニカ」を日本人として最も早く見たとも言われている。帰国後、池袋西口一帯にあった長崎アトリエ村に居を構えた池袋モンパルナスを代表する画家の一人であり、戦後は西池袋の谷端川沿いにアトリエを構えた。
展覧会場の「吉井忠の山村報告記」と題されたコーナーでは、太平洋戦争のはじまった1941年から終戦の前年頃にかけて東北地方を訪れた記録やスケッチなどが数多く展示されている。
氏の画風や絵に向かう考え方の変化はこうした東北の人々の生活にじかに接する中でより確固としたものになっていったのだろうか。
氏は戦後1952年に設立された豊島区の美術家協会にも所属されていて、私事ながら私も仕事の関係で何度かご自宅に伺い、展覧会に出品する作品を預からせていただいたりしたことを懐かしく思い出す。
氏は1999年に91歳で亡くなったのだが、関連でいえば、2006年3月にその1回目が行われた街ぐるみの文化事業である「新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館」では、娘さんの吉井爽子氏と熊谷守一の二女・熊谷榧氏の展覧会が立教大学の太刀川記念館や構内を使って大々的に開催されたのだった。
それももう16年も昔のことになる。
吉井忠の書いた「東北記」など、東北に関する研究や記録は近年になってようやく全貌が明らかになりつつあるという。
まだまだ注目すべき美術家なのである。
昭和のはじめ、1930年代、40年代において、先端的な意識をもった人々が相次いで東北地方を訪れ、この地の建築や生活用品に注目した。
こうした東北に向けられた複層的な「眼」を通して、当時、後進的な周縁とみなされてきた東北地方が、じつは豊かな文化の揺籃であり、そこに生きる人々の営為が、現在と地続きであることを改めて検証するもの、と展覧会のチラシには書かれている。
ドイツの建築家ブルーノ・タウトや民藝運動を展開した柳宗悦、考現学の祖として知られる今和次郎や「青森県画譜」を描いた弟の今純三の仕事などが紹介されていて、それぞれに興味深いのだが、その中で、特に私の目当てだったのは東北生活美術研究会を主導した福島出身の画家吉井忠の仕事だった。
吉井忠ははじめ前衛的な作風をめざしたが、のちに「土民派」と称するように人々の生活にねざした姿を描くようになった。
1936年から37年にかけて渡欧、ピカソの「ゲルニカ」を日本人として最も早く見たとも言われている。帰国後、池袋西口一帯にあった長崎アトリエ村に居を構えた池袋モンパルナスを代表する画家の一人であり、戦後は西池袋の谷端川沿いにアトリエを構えた。
展覧会場の「吉井忠の山村報告記」と題されたコーナーでは、太平洋戦争のはじまった1941年から終戦の前年頃にかけて東北地方を訪れた記録やスケッチなどが数多く展示されている。
氏の画風や絵に向かう考え方の変化はこうした東北の人々の生活にじかに接する中でより確固としたものになっていったのだろうか。
氏は戦後1952年に設立された豊島区の美術家協会にも所属されていて、私事ながら私も仕事の関係で何度かご自宅に伺い、展覧会に出品する作品を預からせていただいたりしたことを懐かしく思い出す。
氏は1999年に91歳で亡くなったのだが、関連でいえば、2006年3月にその1回目が行われた街ぐるみの文化事業である「新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館」では、娘さんの吉井爽子氏と熊谷守一の二女・熊谷榧氏の展覧会が立教大学の太刀川記念館や構内を使って大々的に開催されたのだった。
それももう16年も昔のことになる。
吉井忠の書いた「東北記」など、東北に関する研究や記録は近年になってようやく全貌が明らかになりつつあるという。
まだまだ注目すべき美術家なのである。
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