又吉直樹の小説「火花」を読んだのは4月下旬のこと。この作品が単行本化されて間もない頃かと思うが、あれからもう半年が経つというのにいまだに話題になり続けているというのは稀有なことだ。それだけインパクトの大きな作品だったということか。
私自身は、電車の吊り革にぶら下がりながらこの本を読んでいて、その120ページ目、主人公の漫才師が相方からの申し出でコンビの解散を決め、最後のライブに臨むあたりから鼻の奥がつうんと痛くなり、思わず目頭が熱くなって年甲斐もなく慌ててしまったことを覚えている。
作者の計算というか、仕掛けが功を奏したわけで、それにまんまと嵌ったこちらとしては口惜しくもあるのだが、それもまあ読書の楽しみのうちである。
この小説の特質は、その描写のすべてが徹頭徹尾、漫才論に貫かれているということである。メタ漫才小説といって良いのかも知れない。
「人生は笑いである」という一点に最大の価値観を見出した男たちを描いた小説であり、そこに価値を置いたからには、すべての事象は「笑い」に転化されなければならない。
悩みも貧しさも恋や友情さえもが、いかに笑いになるかという点において価値を持つ。これは、世界全体を「笑い」というフィルターを通して認識しようと足掻く男たちの物語であり、その物語すら、笑いになったかどうかという評価軸によって推し量られるのだ。
「火花」はそうした特質を持つがゆえに、小説の筋立てにしたがって描写される熱海の温泉街や居酒屋、生計を維持するためのバイト、借金、先輩・神谷の同棲相手の女性など…、それらすべては破天荒な主人公たちの生き方をクローズアップさせるための道具立てとしていつしか後景に追いやられ、小説としてのリアルティは希薄になる。
むしろ、そんなリアリティや現実感というものを必要としないのがこの小説であり、まさにそのことが、本作を純粋な、得も言われぬ青春小説たらしめているのではないかと思える。
そして最近になって読んだのが、もう一つの芥川賞受賞作、羽田圭介の小説「スクラップ・アンド・ビルド」である。
近頃は仕事に追われ、気の滅入る日々のなかで、介護を主題にした小説などよけいに滅入ってしまうのではなかろうかと敬遠気味ではあったのだが、小説を読み進むうちに、むしろこの物語に慰撫されるような気持ちになったのは新鮮な発見だった。
小説の主人公、28歳の健斗は、5年間勤めたカーディーラーを自己都合で退職、行政書士資格取得に向けた勉強を独学で続けながら、月に1,2度、大手企業の中途採用試験を受け続けている。
母親と要介護状態となって転がり込んできた87歳の祖父との3人暮らしのなか、「早う死にたか」とぼやき続ける祖父にいつしか殺意を抱く主人公…。あるいはそれは、祖父の思いを遂げてやりたいという愛情の裏返しなのかも知れないのだが、要介護状態が改善し、生きる希望など抱かぬよう、過剰な介護を施すことで安らかな死を迎えられるよう手を尽くすのだ。
しかし、これをいわゆる介護小説として読んでは、この小説としての面白さを読み違えることになるだろう。
本作は主人公・健斗の物語であり、すべては健斗の目を通して語られる。祖父の姿や言動も、あくまで健斗が認識したものなのであり、その祖父の話も認知症ゆえの錯誤によってどこまでが妄想でなにが真実なのか、それはまさに藪の中なのである。
そう考えながら読み進むうちに、この物語が果たして本当に孫から見た祖父の姿を描いているのか、ひょっとして、祖父が見守る孫の姿を描いているのではないかなどと思えてくる。
小説の終盤、就職が決まって家を出て行く健斗を駅まで見送った祖父の姿には大きな包容力やある種の達成感すら感じて、まさにこの小説が主人公・健斗の成長物語であったのだと気づかされるのだ。
奇妙な構造を持った小説だが、共感も同情も覚えるはずのない主人公たちにいつしか肩入れしたくなる、静かで不思議な感動に満ちた作品である。
私自身は、電車の吊り革にぶら下がりながらこの本を読んでいて、その120ページ目、主人公の漫才師が相方からの申し出でコンビの解散を決め、最後のライブに臨むあたりから鼻の奥がつうんと痛くなり、思わず目頭が熱くなって年甲斐もなく慌ててしまったことを覚えている。
作者の計算というか、仕掛けが功を奏したわけで、それにまんまと嵌ったこちらとしては口惜しくもあるのだが、それもまあ読書の楽しみのうちである。
この小説の特質は、その描写のすべてが徹頭徹尾、漫才論に貫かれているということである。メタ漫才小説といって良いのかも知れない。
「人生は笑いである」という一点に最大の価値観を見出した男たちを描いた小説であり、そこに価値を置いたからには、すべての事象は「笑い」に転化されなければならない。
悩みも貧しさも恋や友情さえもが、いかに笑いになるかという点において価値を持つ。これは、世界全体を「笑い」というフィルターを通して認識しようと足掻く男たちの物語であり、その物語すら、笑いになったかどうかという評価軸によって推し量られるのだ。
「火花」はそうした特質を持つがゆえに、小説の筋立てにしたがって描写される熱海の温泉街や居酒屋、生計を維持するためのバイト、借金、先輩・神谷の同棲相手の女性など…、それらすべては破天荒な主人公たちの生き方をクローズアップさせるための道具立てとしていつしか後景に追いやられ、小説としてのリアルティは希薄になる。
むしろ、そんなリアリティや現実感というものを必要としないのがこの小説であり、まさにそのことが、本作を純粋な、得も言われぬ青春小説たらしめているのではないかと思える。
そして最近になって読んだのが、もう一つの芥川賞受賞作、羽田圭介の小説「スクラップ・アンド・ビルド」である。
近頃は仕事に追われ、気の滅入る日々のなかで、介護を主題にした小説などよけいに滅入ってしまうのではなかろうかと敬遠気味ではあったのだが、小説を読み進むうちに、むしろこの物語に慰撫されるような気持ちになったのは新鮮な発見だった。
小説の主人公、28歳の健斗は、5年間勤めたカーディーラーを自己都合で退職、行政書士資格取得に向けた勉強を独学で続けながら、月に1,2度、大手企業の中途採用試験を受け続けている。
母親と要介護状態となって転がり込んできた87歳の祖父との3人暮らしのなか、「早う死にたか」とぼやき続ける祖父にいつしか殺意を抱く主人公…。あるいはそれは、祖父の思いを遂げてやりたいという愛情の裏返しなのかも知れないのだが、要介護状態が改善し、生きる希望など抱かぬよう、過剰な介護を施すことで安らかな死を迎えられるよう手を尽くすのだ。
しかし、これをいわゆる介護小説として読んでは、この小説としての面白さを読み違えることになるだろう。
本作は主人公・健斗の物語であり、すべては健斗の目を通して語られる。祖父の姿や言動も、あくまで健斗が認識したものなのであり、その祖父の話も認知症ゆえの錯誤によってどこまでが妄想でなにが真実なのか、それはまさに藪の中なのである。
そう考えながら読み進むうちに、この物語が果たして本当に孫から見た祖父の姿を描いているのか、ひょっとして、祖父が見守る孫の姿を描いているのではないかなどと思えてくる。
小説の終盤、就職が決まって家を出て行く健斗を駅まで見送った祖父の姿には大きな包容力やある種の達成感すら感じて、まさにこの小説が主人公・健斗の成長物語であったのだと気づかされるのだ。
奇妙な構造を持った小説だが、共感も同情も覚えるはずのない主人公たちにいつしか肩入れしたくなる、静かで不思議な感動に満ちた作品である。
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