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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

医療と芸術

2013-05-23 | 文化政策
 佐久総合病院小海診療所長の北沢彰浩氏が5月16日付日経新聞のコラム「医師の目」欄に新しい医療の定義の提案として次のようなことを書いていた。
 「医療とは人がその人らしく生きるために医術で病気を治すこと。ただし治らない病気の時は人がその人らしく最期まで生きられるように寄り添い支えること」が大事になる…
 …「寄り添い支える」が医療の定義に入ると「子供が熱を出すと親は子供に寄り添い支え、高齢の親が寝込むと子は親に寄り添い支える」ので、医療の専門家でない自分たちも寄り添い支える医療の担い手であることに気付き、医療をもっと身近なものに感じることができるようになり…それが医療の民主化をめざすきっかけになる…と言うのだ。

 これらの言葉に深く共感しながら、ここでいう「医療」という言葉を「芸術」に置き換えることができるのではないかと考えていた。

 芸術とは人がその人らしく生きるために、音楽や美術、演劇といったアートの力によって励まし、元気づけること。ただし治る見込みのない病気や絶望の淵にある時は、人がその人らしく最期まで生きられるように寄り添い支えること。
 子供が道に迷い言い知れぬ不安に苛まれていると親は子供に寄り添い支え、高齢の親が孤立と深い疎外感に打ちひしがれて床に臥すと子は親に寄り添い支えるように、芸術の専門家でない自分たちも人の心の声に耳を傾け、その寂しさや儚さや絶望の深さや強さや美しさを感じることができる、そうした芸術の担い手であることに気付く時、芸術をもっと身近なものに感じることができるようになるのではないか……。

 北沢氏はこのコラムで医療の民主化ということを住民参加を前提として考えようと提起しているのだが、それでは、芸術の領域において、民主化や住民参加ということをどのように考えればよいのだろう。
 瀬戸内海や越後妻有における住民参加の芸術祭の成功や、様々なワークショップ、アーティストによるアウトリーチ活動の事例を目にし、耳にしながらも、それはなかなかに厄介な難問であり続けるだろうと思うのだ。
 誰もが「医療」を必要不可欠なもの、万人が欲するものと感じているほどには、誰も「芸術」の必要性やその存在意義を信じてはいないがゆえに……。
 結果として芸術は専門家の手に委ねられ、いつまでも啓蒙の対象であり続け、とどのつまり、芸術の民主化は実現することのない御題目になり下がる。

 だが、本当にそうなのだろうか。
 そんなふうに斜に構えた身振りで簡単にあきらめてよいはずはないだろう。
 私たちがこれまで取り組んできた文化政策はそのための戦略なのであるから。
 それは未だ戦いにすらなっていないのかも知れないのだけれど。


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