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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

川端康成「雪国」再読

2022-05-01 | 読書
今年は川端康成没後50年とのことで、それを記念してか代表作「雪国」をドラマ化したものがテレビで放映されたり、各地で関連の催しが行われたり、さらにはこれまで全集でしか読めなかった川端の「少年」が文庫で刊行され大きな話題となったりしている。

さらに今年は芥川龍之介の生誕130年でもあり、こちらも関連展示や講演会などが開催されているが、川端は芥川の7歳年少の同時代人だった。
芥川が早くに亡くなっているし、川端はその後の活動が華々しいので活躍した時代が異なっているという気がしていたのだが、芥川の没年である1927(昭和2)年までにはすでに「十六歳の日記」、「伊豆の踊子」などを書いている新進作家だったのだ。
ちなみに川端と同年生まれの作家には、米国のヘミングウェイやアルゼンチンのボルヘス、ロシア生まれのナボコフなどがいて、実に多士済々である。

さて、川端の「雪国」は、ノーベル文学賞授賞理由にあるように「日本人の心の精髄を優れた感受性で表現する、その物語の巧みさ」を代表する作品である。
1935(昭和10)年頃から戦後の1947(昭和22)年にかけて断続的に書き継がれて完成した本作は、執筆されていた時代背景もあって性愛表現などはあくまで抽象的に読者の想像に委ねる書き方をしているのだが、そのことが生々しさを濾過し、象徴的で、えも言われぬ美しさを醸しだしている。

語り手の立場にある「島村」は親譲りの財産で無為徒食の生活をしているのだが、その生活感は希薄であり、この小説の中においては、あくまで「芸者駒子」や「葉子」の姿を浮かび上がらせるという役割のみを担っていると思える。
川端自身が島村について語ったものとして、「島村は私ではありません。男としての存在ですらないようで、ただ駒子をうつす鏡のようなもの、でしょうか」という言葉が紹介されているが、新潮文庫版で郡司勝義が注解に書いているように、「能でいえば駒子のシテに対するワキといえようか」という解釈が説得力をもっているように感じられる。
ある場所を訪れた旅人(島村)の前に現れる雪国の精霊のような存在が駒子であり、葉子なのだ。夢幻能形式の叙述によって語られる雪国の生活や自身の身の上話は象徴として昇華され、半ば睡りの中にある島村を通して顕現化するのだ。それゆえにこその駒子の清潔な美しさであり、葉子の「悲しいほど美しい声」なのではないだろうか。

ポール・クローデルは「劇とは何事かが到来するものであり、能とは何びとかが到来するものである」と定義づけている。(堀辰雄訳)
「雪国」には、たしかに劇的要素も十分に配置されているのだが、それよりはむしろ「能」的な美しさに満ちていると感じる。
そういえば冒頭の国境の長いトンネルは、まさに能舞台における「橋懸かり」のような役割を担っていると考えて良さそうである。


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