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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

ブック・オフ

2020-08-02 | 読書
 書棚の整理をしていて、おそらくもう読み返すことはないけれど、ゴミに出すには忍びないと思う本を14冊ほど選んで近所のブック・オフに持って行ったのだが、査定額は291円だった。100円以上の値がついたのはそのうちの2冊だけで、1冊は30円、残る11冊はそれぞれ1円の値付けである。
 いろいろと考えさせられる。
 1円の値がついた本は、誰もが知っている著名作家のベストセラー本なのだが、つまりそれだけ多くの人が手に取って読んだ結果、買い取りを行う店舗に持ち込まれ古書として出回る割合も高くなり、市場においてはもう飽和状態となっていることを示しているのだろう。
 値は希少なものにこそ微笑むのだ。

 本の価値とは何だろうか、と改めて思う。
 蔵書やコレクションは、それを保有している人にとってこそ価値があるというのが基本だと思うのだが、しばしばそれらが驚くほどの高値で取り引きされるのは、それに市場価値という別の要素が付加されるからだろう。著名な作家の稀覯本などにはとんと縁がなく、興味もない私にとっては、書物がそのように市場に流通し、取り引きの対象となること自体に理解が及ばないのだが、それは単に私が無知だからなのだろう。
 美術品や骨董品のオークションの世界はもとより、それらを鑑定する業が成り立ち、それに人生を賭するような人たちが多くいるという現実を考えれば、それは不思議でも何でもない自明の世界なのだ。
 そのうえで、あえて私にとっての本の価値とは何かと言うならば、それはそこに書かれていることが私の興味を喚起する度合いであり、かつ、私がその本を手にして読むことそのものを享受し、そのことを「快」と感じる瞬間の価値であると言えるかもしれない。
 さらに言うなら、私の貧しい書棚に並ぶ書物たちは、私がいずれそれらを手にして読むことを享受するだろうという「期待」の大きさによって価値づけられている、と規定することもできるだろう。そしてその「期待」は、市場原理とは相反するものであるがゆえに、私にとってはよりかけがえのないものだと言えるのではないか。

 私自身が廃棄することを選択したそれらの本に1円という値がつけられたこと自体には、私自身の「期待」値がそうであったように異論はなく、受け入れるしかない。ただ、それらの本を重い思いをして運んで行った《労力と時間》に見合うかと言われれば、どうかな、と嘆息するしかない。それだけのことだ。

 最後に付け加えるなら、私が持ち込んだそれらの本への評価はあくまで私個人のものであり、本の内容そのものを価値づけるものでないことは言うまでもない。
 願わくば、その本たちがゴミ箱の片隅で不当な待遇を受けるのではなく、より良い読者と出会い、その手に取られることを「期待」する。
 私の支払った《労力と時間》は、その「期待」が実現することによって十分に報われるのだから……。


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