日本政府・厚生労働省が8月25日から9月2日の間、ロシア中央シベリアで旧日本軍人「抑留者」の遺骨を収集しました。
チター市近郊のカダーラ村で行われた遺骨収集は、日本から参加した15名の関係者と地元支援要員の20名で発掘作業が始まりました。
二年前にもこの作業が行われていますが、今回は最後の収集になりました。
炎天下30℃の中での作業は困難を極めました。高齢の参加者が多いのです。
100体の遺骨が発掘された現場ではしめやかにセレモニーが行われました。
参加者「抑留者」の一人である、上川路正道(86歳)さんは、当時の事を「1945年満州にいたところ日本軍上官から武装解除の命令がありソ連軍に武器を提出した。その後ソ連軍に捕虜となりシベリアに三年間抑留される。一番苦痛だったのは食料不足であった。薬も無く大勢の仲間が死んでいった」と複雑な心境を話をしていました。
ロシアの関係者は「当時ソ連はスターリンが大統領であり捕虜に対しては国際法で守られていたが、日本軍人の抑留者には手厚い保護はされていなかった。でも当時この村の人々は抑留者達にパンや食べ物を提供していた事実も認めてほしい。私は戦後生まれの人間ですが、スターリンのした事は謝りたいと思います。
これからロシアと日本が明るい事で仲良くしたいと考えています」
チター市近郊のカダーラ村で行われた遺骨収集は、日本から参加した15名の関係者と地元支援要員の20名で発掘作業が始まりました。
二年前にもこの作業が行われていますが、今回は最後の収集になりました。
炎天下30℃の中での作業は困難を極めました。高齢の参加者が多いのです。
100体の遺骨が発掘された現場ではしめやかにセレモニーが行われました。
参加者「抑留者」の一人である、上川路正道(86歳)さんは、当時の事を「1945年満州にいたところ日本軍上官から武装解除の命令がありソ連軍に武器を提出した。その後ソ連軍に捕虜となりシベリアに三年間抑留される。一番苦痛だったのは食料不足であった。薬も無く大勢の仲間が死んでいった」と複雑な心境を話をしていました。
ロシアの関係者は「当時ソ連はスターリンが大統領であり捕虜に対しては国際法で守られていたが、日本軍人の抑留者には手厚い保護はされていなかった。でも当時この村の人々は抑留者達にパンや食べ物を提供していた事実も認めてほしい。私は戦後生まれの人間ですが、スターリンのした事は謝りたいと思います。
これからロシアと日本が明るい事で仲良くしたいと考えています」