n45-50

ロシア・サハリンと北海道を結ぶ架け橋ネット。
サハリン州には。、ロシア人もウクライナ人も住んでいる混住地域です。

サハリン・カムチャツカ ガイドブック 発売中 北海道便り

2007-07-14 08:16:53 | 旅行・観光・買い物
サハリン・カムチャツカの旅は、最新情報満杯のガイドブックが御案内。
写真も満載で現地の情報が手に取るように分かります。
旅に行けない方もこのガイドブックで「旅の感覚」が味わえそうです。
執筆協力・Sugiyamenko氏が担当しております。
写真提供としてフアルコンジャパンが協力しております。
全国の書店で販売中「定価1800円(税別)」です。

ロシア・極東の旅「フアルコン・ジャパン」は、当Blogのブックマークからアクセスできます。
北海道→サハリン
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北海道開拓の村 ガイドが「ボランテァ」御案内

2007-07-13 06:58:05 | 人・交流
北海道開拓の村では、ボランテァの皆さんが訪れた見学者へ村内を無料ガイドをしています。
毎日、午前10時から午後3時の間  案内時間は最大で90分を予定しています。

外国語「英語」対応のガイドは、1週間前まで予約頂ければ対応するそうです。
夏の開拓の村は、浴衣・和服姿の片は入場が無料になっています。
是非・開拓の村で北海道の歴史・文化を学んでください。

ロシア語の案内書も用意されています。

北海道→サハリン

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我が家のダーチャ 花あり野菜あり・・・ 北海道便り

2007-07-12 07:39:57 | 季節
サハリンのダーチャより狭い空間での我が家のダーチャです。
この空間に、野菜・花などが所狭しと植えられています。
当初は、土地も粘土質で土の改良を重ねて今年から作物が植えられるまでになりました。
当然、サハリン原産のビーッも植えられています。
花を楽しんで ビーッでボルシチ そしてサハリン産ビールで乾杯 !!!
粋な生活を堪能しています。
秋には、ボルシチ・パーティを開催します。

北海道→サハリン
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ビーッも生育順調 北海道便り

2007-07-11 07:04:24 | 食べる・飲む
サハリン産 ビーッも順調に生育しています。
ビーッは、ロシア料理ではボルシチでの主役でもあります。
収穫期には、ビーッは真っ赤な色合いでボルシチの赤を特徴立てます。
この赤が、栄養満点でボルシチの味を際立てます。
寒い時期には、特にこの料理はロシアの人々に栄養価を充分に与えてくれます。
秋には、Blogスタッフが集合します。
ボルシチ・パーティ「本場のボルシチ作り方も伝授します」を開催してその報告をしたいと思っています。

北海道→サハリン
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北海道拓殖銀行は美術館 サハリン便り

2007-07-10 07:29:44 | 旅行・観光・買い物
旧 北海道拓殖銀行はサハリン州立美術館として現存しています。
サハリン州ユジノサハリンスク市内の中心街にあるサハリン州立美術館では、毎月多彩な展示が行われています。
常設展示として昔の日本・韓国の陶磁器や民族衣装が展示されています。
内部は、石が使われ吹き抜けのロビーは開放感が漂い展示物との一体感が溢れています。
年に数回「日本文化の日」を定めて日本人形展などが行われ市民の関心を寄せています。
地元の作家「絵画・彫刻・彫金」などの発表も行われてロシア芸術の底力を見せています。
ロシアの18-19世紀に活躍した画家による展示も常設されています。
又、隣接しているサハリン州立図書館では、日本時代の資料も閲覧可能です。
中庭には、チェホフの銅像もありサハリン州を代表する文化施設です。

サハリン→北海道
写真・サハリン州立美術館「旧 北海道拓殖銀行 豊原支店」
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ダァーチャ「別荘」も最盛期 サハリン便り

2007-07-09 07:01:47 | 動・植物・環境
サハリンの人々は、ダァーチャと言う別荘を保有しています。
野菜・果物などを自家栽培して家族の食をまかなっています。
鶏・豚・アヒル・ガチョウ などの家畜も飼育しています、中でも鶏は毎日新鮮な卵を生産してくれます。
自家消費で余った卵は、市内の市場で直売されます。
値段も格安で新鮮なので市民にも人気があります。
これからの季節ダァーチャは、最盛期に入り秋の収穫を待ちます。
平均所得も高騰しているご時世に自家菜園・家畜の副業と北海道感覚では、「羨ましい限り」です。

サハリン→北海道
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馬橇の歴史は、サハリンから 札幌式馬橇

2007-07-08 09:00:54 | 情報
何と・・・馬橇の歴史は、ロシアからとは「再発見」でした。
明治時代の話です。
見聞によりますと、黒田清隆がロシアを視察した折に「馬車・馬橇」を購入して北海道独自の馬橇を制作しようとしたが、上手くいかずサハリンから橇の製作技術者「馬橇・ペチカ製造の三名」を雇ったとあります。「明治11年12月」
「ペチカ製造職人」と「ロシア式住居」を建設した職人がいたはずですが、調査不足で判明しません。

函館日露交流史研究会のHPより転写
005年09月30日
明治初期におけるロシア型馬橇の導入について  関秀志
研究の目的
 北海道における生活文化形成史を民具の面から見ると、(1)先住民族アイヌの民具、(2)府県からの移住者・出稼者等がもたらした日本各地の伝統的民具、(3)外国から流入した外来民具、(4)それらが改良され、あるいは北海道で独自に考案された北海道的民具の4種に大別することができる。
 (3)の外来民具の中で注目すべきものに、明治初期に開拓使によってロシアから導入され、その後さまざまな工夫と改良が加えられて、(4)の北海道的民具になったロシア型馬橇がある。
 明治初期における開拓使の欧米技術文化導入政策がアメリカからの移入に重点が置かれていたことは周知のとおりであるが、その中にあってロシアからの馬橇の導入は北海道の民具発達史上極めて重要であるばかりでなく、日露文化交流史の上からも注目されてよいと思われる。
 私の研究は、ロシア型馬橇導入の背景とその経過、開拓使による製作とその後の普及・改良について明らかにしようとしたものである。

導入の背景
 開拓使は開拓政策の一環として道路の建設に力を注いだが、特に冬期の交通・運輸を確保するために、馬橇に注目した。開拓使の最高顧問だったホ-レス・ケプロンも橇による運搬の便利なことを説いている。

導入の経過
 明治7年(1874)開拓使は樺太支庁を通してロシア人から「馬雪車」(馬そり)と「曳馬鉄沓」(蹄鉄)を購入、翌年札幌の工業局器械場で製作を始めたが、台木の先端を曲げる方法がわからず失敗をくりかえす。明治11年8月~10月に黒田開拓長官がウラジオストクを視察した際にロシアから「木製橇」を贈られ、「乗橇」1台を購入した。さらに同年12月彼は樺太のコルサコフに出張し、橇と住宅を視察、ロシア人職工3人を雇って帰る。こうして、ロシア型馬橇の製作事業が軌道に乗った。

ロシア人職工の雇用と職務
 明治11年12月、イワノフ、ハモトフ、ノウパシン(セルメンツオフから変更)の3人とコルサコフで契約。期間は当初1年間だったが、ノウパシンは都合により12月10日まで、他の2人は13年6月まで延長となった。往復の旅費、住宅は支給、月給は50円で、労働時間は日曜・休日以外は毎日8時間である。彼等の職名は木工職・木工教師で、主としてロシア型の車橇製作とペチカ付丸太組家屋の建設指導に従事した。

製作事業と利用
 ロシア型馬橇の製作は明治11年12月から本格化するが、同年8月から開拓使廃止直前の15年1月までの製作台数は439台(荷橇420、乗橇19)である。この事業はその後、工部省札幌工業課、農商務省北海道事業管理局札幌工業事務所に引継がれ、明治19年に北海道庁が設立されると廃止された。
 開拓使・北海道事業管理局は製作した橇を民間に払下げた他、これらの馬橇を利用し、明治12~13年に札幌・小樽間、14~17年に札幌・室蘭間の輸送事業を実施している。

ロシア型馬橇の特色
 ロシア型馬橇の構造的特色を日本在来の橇のそれと比較すると次のとおりである。(1)左右の2本の台木を蒸籠に入れてふかし、その先端を曲げること。この鼻曲げ作業は最も高度な技術を要する。(2)台の上に片方5個、左右10個の束木をたてること。(3)左右の束木および台木の先端にわたす横木として柴木(若木の細い丸太)を用いること。この柴木も蒸籠でふかし、柔らかくして束木や台木に巻き付ける。柴木を巻き乾燥するとよく締まって橇が丈夫になる。このことから、ロシア型馬橇は後に柴巻馬橇と呼ばれた。(4)台木の裏側に鉄板を張り付けて、橇の滑りを良くし、台木の磨耗を防いだこと。

ロシア型馬橇の改良と普及
 札幌の官営工場での橇製作事業が廃止されると、職工たちが独立して開業し、そこで修業した職人たちが開拓地域の拡大と共に全道各地の市街地に進出した。
農耕馬の増加にともない馬橇は増加の一途をたどり、昭和15年頃には12万5000台を超えた。
 ロシア型馬橇の構造と製作技術の伝統を最もよく謳歌したのが札幌型馬橇(柴巻馬橇、図2参照)で、昭和10年代には全道の馬橇の約70%を占め、北海道の代表的な馬橇となった。
その分布地域は、次に述べる函館型馬橇の分布地域を除く道内であるが、日露戦後、南樺太が日本領になるとロシア型馬橇のふるさとであるこの地方にも普及した。
 一方、北海道の旧開地である函館地方では早くからわが国の在来型の橇が使われていたが、馬橇の製作は札幌よりおくれ、その構造や製作技術も札幌型とは異なるものが成立した。
台木の先端を高く曲げ、束木を立てるのはロシア型の影響を受けているが、台木は薄く、柴木は用いず、金具を多く用いて組立てる、この函館型馬橇は函館の経済圏であった道南の渡島・檜山地方地方や十勝・釧路・根室地方の太平洋沿岸部に分布する。

 また、ロシア型馬橇の影響は青森地方にも及んだ。青森型馬橇は一見函館型馬橇に似ているが、台木の先端はふかして曲げるのではなく根元の曲がった木を利用している点に特色がある。台木を曲げる技術は津軽海峡をこえることがなかったのである。

今後の研究課題
 1870~80年代におけるロシア極東地域の馬橇の実態、開拓使が招いた3人のロシア人職工、函館型・青森型馬橇の成立時期の解明が残された課題である。
「会報」No.12 1999.5.20

明治時代に、馬橇の製作をロシア人に依頼していた事実は新たな発見です。
ロシアから引き繋がれた技術は、函館・札幌・青森型に改良されて北海道に普及されたものです。

北海道では、大正時代には13000台もの馬橇が使用されていたそうです。
図 ロシア式馬橇を札幌式に改良した原型図
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2007年7月7日 結婚記念日 サハリン便り

2007-07-07 08:03:30 | 人・交流
サハリン州では、7・7・7(ラッキー7)の数字が並ぶ本日に結婚式をするカップルが大勢います。
今年、春からユジノサハリンスク市役所には、本日・結婚する申請書が約200組余りが寄せられていました。
市内の式場は、何処も満杯で予約も出来ないそうです。
郊外のペンション・民宿などで披露宴を行うカップルもたくさんいます。
1日に200組の結婚式が行われるのは、サハリン州始まっての事です。

「皆さん御幸せになって下さい」
北海道では、本日は忙しい「祝日」ですか。
サハリン→北海道
写真・ユジノサハリンスク市・コルサコフ市間の国道沿いにあるトナカイ銅像に捧げられている「新婚カップの記念品」
(幸せな家庭を築ける)そうです。

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馬橇はロシアから来ていた 馬橇研究 北海道便り

2007-07-06 06:41:40 | 情報
何と・・・北海道の馬橇歴史は、ロシアから輸入していたものでした。
明治11年に当事の北海道長官・黒田清隆がロシアを視察した際に「馬車・馬橇」を購入して北海道で生産しょうとしたが、技術不足で完成できずサハリン州に赴き「馬橇・ペチカ」の職人を雇用してロシア式馬橇の生産に取り組んだというものである。
北海道開拓史は、アメリカ・ロシアの大国に支えられていた。

再発見・眼にウロコ
当事の状況は、函館日露交流史研究会のHPに記述されている。

要約を抜粋
明治初期におけるロシア型馬橇の導入について
関秀志

研究の目的
 北海道における生活文化形成史を民具の面から見ると、(1)先住民族アイヌの民具、(2)府県からの移住者・出稼者等がもたらした日本各地の伝統的民具、(3)外国から流入した外来民具、(4)それらが改良され、あるいは北海道で独自に考案された北海道的民具の4種に大別することができる。
 (3)の外来民具の中で注目すべきものに、明治初期に開拓使によってロシアから導入され、その後さまざまな工夫と改良が加えられて、(4)の北海道的民具になったロシア型馬橇がある。
 明治初期における開拓使の欧米技術文化導入政策がアメリカからの移入に重点が置かれていたことは周知のとおりであるが、その中にあってロシアからの馬橇の導入は北海道の民具発達史上極めて重要であるばかりでなく、日露文化交流史の上からも注目されてよいと思われる。
 私の研究は、ロシア型馬橇導入の背景とその経過、開拓使による製作とその後の普及・改良について明らかにしようとしたものである。

導入の背景
 開拓使は開拓政策の一環として道路の建設に力を注いだが、特に冬期の交通・運輸を確保するために、馬橇に注目した。
開拓使の最高顧問だったホ-レス・ケプロンも橇による運搬の便利なことを説いている。

導入の経過
 明治7年(1874)開拓使は樺太支庁を通してロシア人から「馬雪車」(馬そり)と「曳馬鉄沓」(蹄鉄)を購入、翌年札幌の工業局器械場で製作を始めたが、台木の先端を曲げる方法がわからず失敗をくりかえす。
明治11年8月~10月に黒田開拓長官がウラジオストクを視察した際にロシアから「木製橇」を贈られ、「乗橇」1台を購入した。
さらに同年12月彼は樺太のコルサコフに出張し、橇と住宅を視察、ロシア人職工3人を雇って帰る。こうして、ロシア型馬橇の製作事業が軌道に乗った。

ロシア人職工の雇用と職務
 明治11年12月、イワノフ、ハモトフ、ノウパシン(セルメンツオフから変更)の3人とコルサコフで契約。期間は当初1年間だったが、ノウパシンは都合により12月10日まで、他の2人は13年6月まで延長となった。
往復の旅費、住宅は支給、月給は50円で、労働時間は日曜・休日以外は毎日8時間である。
彼等の職名は木工職・木工教師で、主としてロシア型の車橇製作とペチカ付丸太組家屋の建設指導に従事した。

製作事業と利用
 ロシア型馬橇の製作は明治11年12月から本格化するが、同年8月から開拓使廃止直前の15年1月までの製作台数は439台(荷橇420、乗橇19)である。
この事業はその後、工部省札幌工業課、農商務省北海道事業管理局札幌工業事務所に引継がれ、明治19年に北海道庁が設立されると廃止された。
 開拓使・北海道事業管理局は製作した橇を民間に払下げた他、これらの馬橇を利用し、明治12~13年に札幌・小樽間、14~17年に札幌・室蘭間の輸送事業を実施している。

ロシア型馬橇の特色
 ロシア型馬橇の構造的特色を日本在来の橇のそれと比較すると次のとおりである。(1)左右の2本の台木を蒸籠に入れてふかし、その先端を曲げること。
この鼻曲げ作業は最も高度な技術を要する。(2)台の上に片方5個、左右10個の束木をたてること。(3)左右の束木および台木の先端にわたす横木として柴木(若木の細い丸太)を用いること。この柴木も蒸籠でふかし、柔らかくして束木や台木に巻き付ける。柴木を巻き乾燥するとよく締まって橇が丈夫になる。
このことから、ロシア型馬橇は後に柴巻馬橇と呼ばれた。(4)台木の裏側に鉄板を張り付けて、橇の滑りを良くし、台木の磨耗を防いだこと。

ロシア型馬橇の改良と普及
 札幌の官営工場での橇製作事業が廃止されると、職工たちが独立して開業し、そこで修業した職人たちが開拓地域の拡大と共に全道各地の市街地に進出した。
農耕馬の増加にともない馬橇は増加の一途をたどり、昭和15年頃には12万5000台を超えた。
 ロシア型馬橇の構造と製作技術の伝統を最もよく謳歌したのが札幌型馬橇で、昭和10年代には全道の馬橇の約70%を占め、北海道の代表的な馬橇となった。
その分布地域は、次に述べる函館型馬橇の分布地域を除く道内であるが、日露戦後、南樺太が日本領になるとロシア型馬橇のふるさとであるこの地方にも普及した。

 一方、北海道の旧開地である函館地方では早くからわが国の在来型の橇が使われていたが、馬橇の製作は札幌よりおくれ、その構造や製作技術も札幌型とは異なるものが成立した。
台木の先端を高く曲げ、束木を立てるのはロシア型の影響を受けているが、台木は薄く、柴木は用いず、金具を多く用いて組立てる、この函館型馬橇は函館の経済圏であった道南の渡島・檜山地方地方や十勝・釧路・根室地方の太平洋沿岸部に分布する。

 また、ロシア型馬橇の影響は青森地方にも及んだ。青森型馬橇は一見函館型馬橇に似ているが、台木の先端はふかして曲げるのではなく根元の曲がった木を利用している点に特色がある。台木を曲げる技術は津軽海峡をこえることがなかったのである。

今後の研究課題
 1870~80年代におけるロシア極東地域の馬橇の実態、開拓使が招いた3人のロシア人職工、函館型・青森型馬橇の成立時期の解明が残された課題である。

「会報」No.12 1999.5.20
何と・・・馬橇がサハリン州の技術者の手で生産された事に大きな意義を感じます。
新発見です。
明治期の北海道開拓史で江別・屯田兵村にもアメリカ式・ロシア式の兵村住宅が建設されていた。
ロシアから馬橇製作と住居建築が取り入れられていた事になる。
アメリカとの貿易・交流が深くなるにつれてロシアは忘れ去られた現実が見えてきた。
図 ロシア式馬橇原型図
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クラーク博士離道130周年フェスタ 動画

2007-07-05 07:10:59 | 人・交流

「青年よ 大志を 抱け」北海道大学の前身である「北海道農学校・教頭を勤めたクラーク博士」の離道130周年を記念して4月16日にフェスタが開 催されました。道産子馬も参加してクラーク役の教授も初騎乗に緊張気味です。別離の場所は旧島松沢から少し離れた丘であります。この場所でクラーク博士は 別離の言葉として「Boys Be Ambitious」と関係者に贈ったのです。来月8月19日には「クラークフェスタ130」が島松沢で開催されま す。是非参加してください。下記にアクセスしますと動画が無料で閲覧できます。

http://f.flvmaker.com/mc.php?id=.kxcPpX4__GKUTAF6Eq.PMqehLcwBpXhjEYGJBYrVMJtdf/CMgTEYY_6tqRiisDPOecPUAbdknD8XNHZhkKix

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