俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

制度

2013-09-05 13:09:08 | Weblog
 制度を受け入れるということはそのルールに従うということだ。結婚という制度を承認するということは相互に排他的独占権を認め合うということだろう。そういうルールになっているから一方が不倫をした場合、離婚権と慰謝料請求権が発生する。
 昨日(4日)、婚外子の権利を嫡出子と同等にすべしという最高裁判断が示された。子供に罪は無いという理由からだ。
 結婚以前あるいは離婚後の婚外子ならそれで良かろう。しかし結婚中の婚外子はそうではない。配偶者に対する重大な背信行為があるからだ。
 不倫に対する代償はその時点での財産の半分以上を提供することが相応しかろう。この権利を行使しなかったお人好しの妻の子は損をするということになるのだろうか。
 今回の最高裁判断は夫による不倫しか想定していないように思える。妻の不倫によって生まれた子はどう扱われるべきなのだろうか。嫡出子と同等の権利が認められるのだろうか。
 夫婦の財産をどう考えるかから考える必要があるだろう。共働きであれ専業主婦であれ夫婦の財産は共有物だろう。妻の権利を軽く見るべきではない。従って妻が夫の財産を相続するという考え方は誤っており、妻は財産の半分の所有権を元々持っていると考えるべきではないだろうか。妻の権利を守ることが優先的に配慮されるべきだろう。
 こう考えるなら両者の遺伝子を引き継いでいる子が、一方の遺伝子しか持たない子の2倍の権利を持つことは決して不合理とは思えない。
 これはあくまで相続の話であり、シングルマザーが寡婦控除を受けられていないという法的不備は全く別の問題だ。

小さな目標

2013-09-05 09:53:03 | Weblog
 君原健二選手という偉大なマラソン・ランナーがいた。メキシコ・オリンピックでの銀メダリストでもあり、3度オリンピックに出場して総て8位以内という素晴らしい実績を残した。
 しかし彼は所謂天才ランナーではなかった。いつも苦しそうに走り、テレビで見ていてもいつ棄権してもおかしくないような走り方だった。それでも彼は35回のレースで1度も棄権しなかった。苦しい時には「次の電柱まで走ろう」と考え続けていたそうだ。
 大きな目標を否定する気は無いが、大き過ぎる目標を掲げればいつまで経っても達成感が得られない。大きな最終目標以外に小さな中間目標を設けて、小さな達成感を何度も味わうほうが結局、大きな目標に到達できるだろう。
 小さな目標を馬鹿にする人がいる。大風呂敷を広げて、周囲からは法螺吹きと評される人だ。彼らは大きな夢を持ちながらそれを達成するための努力を怠る。棚ボタで幸運が舞い込むことを待っている。
 もしミュージシャンになりたいのなら路上でのパフォーマンスから始めて小さなステージを経て順番に登り詰める必要がある。彼らはそのステップを飛ばしていきなりメジャーになろうとする。これは明らかに不可能な目標だ。結局、本人もそれが無理だと分かっている。分かっているからこそ自尊心を傷付けることにしかならないプロセスを踏みたくないのだろう。小さな目標を設けないのは失敗することによって現実を知ることを避けたいからだ。これでは誤魔化し人生だ。
 大きな目標を達成するためには小さな目標を順次達成する必要がある。シンデレラ願望は現実逃避でしかない。彼に欠けているのは現実感だ。夢の中では誰でもシンデレラになれるが現実ではそんなことは起こらない。いつまでも寝ていないで目を醒ますべきだろう。

護憲

2013-09-05 09:27:44 | Weblog
 日本国憲法は翻訳文だから日本語として不適切な表現が多い。もし憲法の精神を守ろうとするなら適切な表現に改めるべきだろう。
 最も議論の対象になる第9条を見れば第2項に「前項の目的を達するために」という文面がある。これはGHQが作った原案には無く「芦田修正」と呼ばれている。この文のせいで様々な曲解が行われている。
 このことは一例に過ぎずあちこちに曖昧な表現が見られて勝手な解釈を許している。はっきり言って日本国憲法は「悪文」だ。これを国語の教科書に載せると言えば総ての国語の教師が反対すると思えるほどの、読むに耐えない酷い文章だ。こんな悪文が国の根幹であることを国民として恥ずべきだろう。
 内容については様々な意見があり議論されねばならないが悪文であることには誰も異存は無かろう。まるで50年前のトヨペット・クラウンを騙し騙し使っているようなものだ。そろそろモデルチェンジをしても良かろう。
 では護憲を主張して、一語一句の修正も認めず不磨の大典にしようとする人はなぜ改訂に反対するのだろうか。彼らは「改正ではなく改悪だ」と言う。理解し難い。改正案さえ未だ無いのに何を根拠にして改悪だと主張できるのだろうか。
 護憲派と名乗っている人々はただの教条主義者ではないだろうか。あるいは憲法の欠陥を悪用しようと企んでいるだけなのかも知れない。本当に護憲を考えるのなら、憲法の精神を曖昧にしている不適切な表現や玉虫色の文章を改めようとすべきだろう。贋の護憲・偽りの護憲ではなく本物の護憲思想があって然るべきだ。