俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

ルール

2013-09-17 10:34:36 | Weblog
 スポーツでは曖昧なルールは許されない。同じ行為が解釈によって反則になったりならなかったりすることはあり得ない。もしそんな事態になれば関係者が集まって、曖昧にならないようにルールを改正する。
 ルール制定時に想定しなかったことが起こればルールを見直す。例えばかつて平泳ぎで、水中ではなく空中でリカバリーを行う選手が現れた。しばらくの間それはそのまま黙認された。当時のレースの映像を見ると2種類の「平泳ぎ」が同時に見られる。ところが空中リカバリー泳法のほうが早いので水中リカバリーの選手は激減した。この時点でこの2つの泳法は区別されて平泳ぎとバタフライに分かれた。
 このようにスポーツのルールは常に現実を直視して、公平な条件になるように改善が加えられる。法律も、インターネット通信のような想定外の事態に対して、当初は既存法の拡大解釈によって対応するがそれではいずれ対応不可能になりその時点で新しい法律を制定して総合的に対処する。
 解釈が論争になるのは悪法である証拠だ。条文が曖昧であるか時代にそぐわないかどちらかの理由で、現在の条文のままでは役に立たなくなっているということだ。まるで訓詁学のように勝手な解釈をぶつけ合うのではなく「こうすべきだ」という明確な意思を持って、曲解を許さない条文に改めることが正しい対処だろう。
 現行憲法を不磨の大典にしようとする人には怒りすら感じる。不毛な解釈論議こそ憲法の精神を蔑ろにする行為だ。国の根幹が、時の権力者による勝手な解釈によって恣意的に歪められるべきではない。それを防ぐために、国民の総意に基いて憲法を改正して、曲解を許さない明確なものに改めるべきだろう。

正しい怒り

2013-09-17 09:44:29 | Weblog
 怒りは人間が持つ最も強い感情だ。自己破壊をも厭わないほどの感情、自己保存欲をも圧倒する感情は怒りと狂信だけだ。
 最強の感情を抑え込むことなど不可能だ。無理やり抑え込んだつもりでもそのエネルギーは違った方向へと転移する。つまり八つ当たりと自己嫌悪と不快感だ。八つ当たりをすれば怒りの連鎖を生み周囲の怒りのエネルギーが増幅されるので迷惑この上無い。自己嫌悪に陥れば鬱病を患うことになるかも知れない。
 フロイトの理論に従えば抑圧された性欲は転移をして神経症の原因となる。しかし彼はW.ライヒとは違って性を解放せよとは主張しなかった。性欲を精神エネルギーとして昇華させる必要性を説いた。私も怒りを発散せよと言うつもりは無い。正しく怒ることを学ぶべきだと考える。
 正しく怒るために必要なことが2つある。自覚しながら怒ることと、誰に・なぜ怒るのかを正確に知ることだ。
 犬や猫の怒りの姿勢は相手に対する威嚇であり攻撃の予告だ。しかし実はこの明確な怒りの表出が争いを抑止している。怒りを察知した相手側の本能が闘争回避を命じる。戦って怪我をすればお互いに損をするからだ。ローレンツが報告した、闘いに負けた狼が相手に首を晒した時点で闘いが終わるのと同じ、本能に基く種族保存だ。
 ところが本能が壊れた動物である人類にはこの抑止力が働かない。人が我を忘れて怒れば相手を反撃モードにさせる。怒りの表出が攻撃のシグナルにしかならないのだから相手は反攻の態勢を取る。これでは喧嘩にしかならない。冷静かつ論理的に問題点を指摘すれば相手も反撃モードにはならないから建設的な議論が可能になる。
 前にも書いたことだが「原爆許すまじ」は歪められた感情だ。人は物に対しては怒らない、人に対して怒る。だから怒るべき対象は「原爆投下という反人道的行為」でありそれを行ったアメリカ人だ。
 怒りの方向性が間違っていればその怒りは決して解消されない。八つ当たりをしても気が晴れないのと同じことだ。正しい対象に対して怒るべきだ。たとえ攻撃できない相手であろうとも、具体的に誰に・なぜ怒っているのかを認識できれば精神は安定する。これは不安の原因が理解されるだけで不安が半分解消されることと似ている。原因不明のぼんやりとした不安が最も恐ろしいように、対象を見失った怒りは精神を混乱させる。日本人に時折現れる集団ヒステリーの多くは怒りの抑圧が原因だろう。