俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

厳罰主義

2013-09-25 10:20:09 | Weblog
 20日に中国で、例によって奇妙な記事が掲載された。IOC総会での滝川クリステルさんのプレゼンテーションに対する反論で「日本人が拾った財布を届けるのは容赦のない法律があるからだ」という内容だった。7日のプレゼンになぜ今頃、と不思議に思うが、これは薄熙来氏に対する半分でっち上げとも思える厳罰を正当化するためのものだろう。秩序を守るためには厳罰で対処するしか無いという昔ながらの法家そのままの発想だ。
 ところで我々日本人は本当に「容赦のない法律があるから」拾った財布を警察に届けるのだろうか。恥ずかしながら私は遺失物等横領罪の罰則を知らず、この記事で初めて1年以下の懲役または10万円以下の罰金であることを知った。これが「容赦のない法律」なのだろうか。中国こそ容赦のない法律だらけの国であり、毎年桁違いの数の死刑を執行している野蛮な国なのではないだろうか。
 罰則が10万円以下なのだから、10万円を拾ったなら多分ネコババしたほうが得だろう。面倒な手続きも要らないし、バレることなど殆んど無かろう。それでも大半のお金が警察に届けられる。
 これは日本人が優しいからだろう。落とした人が困っていることは誰にでも分かるだけに不正な収入を潔しとはしない。大体、被災者のために寄付をする人が、他人が落とした財布、言い換えれば被害者になった人の財布をネコババするものだろうか。
 こんな記事が掲載されるのは中国ではマナーやモラルが軽視されていることの表れだ。中華帝国以来の性悪説に基く厳罰主義と恐怖政治以外では秩序を守れないと政府もマスコミも信じているからだ。中国の文化レベルは呆れるほど低い。何と情けない非文明国であることか。権力者が悉く「徳」を欠いているから13億の人民がそれを模倣しているとは考えないのだろうか。

哲学と科学

2013-09-25 09:44:40 | Weblog
 哲学は科学と相性が良い。元々科学は哲学の一部だったからだ。アリストテレスの著書の半分くらいは今の分類なら博物学と言えるだろう。scienceという言葉が生まれたのは19世紀のことであり、それ以前のニュートンの物理学は自然哲学(nature philosophy)と呼ばれていた。哲学的思考の内、人間学が哲学として残り、自然学は科学として枝分かれしたが、どちらも根本にあるのは事実に対して謙虚であるということだ。
 哲学が科学と袂を別つことになったのは、科学が「再現可能」ということを重視し始めてからのことだ。確かに再現可能という理念は素晴らしく怪しげなものを情け容赦無く追放した。
 しかし再現可能という理念は諸刃の剣であり、再現不可能なものを科学から締め出すことになってしまった。再現可能であるためには原因と結果が一対一対応せねばならない。だから単純要因に分解できないものは、単純化できるものだけしか科学の対象とはならなくなった。心理学がその典型であり、元々複雑な要因によって動く人間心理を分解して単純化することなどできっこない。心理学は科学的であるために最も単純化し易い知覚や記憶に特化した実験心理学になり、学問としての魅力を失ってしまった。
 再現可能を原理とする限り、科学は複雑なものを扱い得ない。気候変動や地殻変動は複雑な要因によって起こるので科学の対象たり得ない。複雑なものに言及する科学は殆んどオカルトに近い。周期性などによっていかにも科学であるかのように装っているが全然科学的ではない。科学は未だ複雑な事象を解明するレベルに達してはいない。