俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

事実と価値

2013-09-19 10:12:38 | Weblog
 事実命題を価値命題と摩り替えてはならない。例えば自然界に、弱者が淘汰されるという事実があっても「弱者は淘汰されるべきだ」ということにはならない。あるいはあらゆる動物のオスはできるだけ多くのメスと交尾しようとする。先日の「ダーウィンが来た!」のカブト虫の話は大いに笑えた。交尾したオスはメスを角で投げ飛ばしてしまう。これは一刻も早く他のメスと交尾するためだ。こんな事実があっても「既婚男性の自由恋愛を認めよ」という身勝手な理屈の根拠にはなり得ない。
 事実がそのまま価値にはならないことを多くの人が承認するから余り問題は発生しない。問題になるのは価値に基いて事実を歪める人が多いことだ。
 例えば「男女は平等であるべきだ」と主張して男女の能力差を認めない人がいる。少なくとも体力においては歴然たる差があるにも関わらずそれを認めようとしない。「吉田沙保里なら男よりも強い」といった無茶な理屈を使ってでも事実を否定しようとする。あるいは「電力が重要だ」と考える人は原発事故が起こるまでは「原発は安全だ」と主張して地震による危険性を絶対に認めようとはしなかった。
 「人種差別はいけない」ということに異を唱えるつもりは全く無いが、人種ごとに能力差があるのは確実だろう。スポーツの身体能力では黒人・白人・黄色人種の順で、知的能力はその逆に黄色人種・白人・黒人の順だろう。とは言えこれはあくまで平均値での話であって、イチロー選手以上の黒人アスリートやオバマ大統領やライス元国務長官よりも賢い日本人は稀だろう。人種差を検証することはタブーとされているようだが、能力の違いが人種の優劣を決めるとは思えない。私はむしろ「違いがあるからこそ差別してはいけない」と考える。もし本当に違いが無いのなら差別など起こらないからだ。
 このように「初めに結論ありき」では正しい判断はできない。事実=価値ではないが、価値判断は事実によって検証され続ける必要がある。

憲法無視

2013-09-19 09:39:36 | Weblog
 蔑ろにされている憲法は第9条[戦争の放棄]だけではない。第15条[国民の公務員選定罷免権]や第89条[公の財産の支出利用の制限]も無視されている。第9条と第15条については以前に書いているので今回は第89条に注目する。
 条文はこうだ。「(前略)公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これ(筆者注:公金)を支出し、またはその利用に供してはならない。」
 悪文なので分かり辛いが要するに、公が支配していない教育に公金を使ってはならない、ということだ。では「公の支配に属しない教育」とは何だろうか。総ての私立校だろう。つまり私立校に出されている補助金は憲法違反ということになる。
 勿論「公の支配」を拡大解釈して私立校も公の支配に属すると曲解することは可能だ。では朝鮮学校はどうなのか。北朝鮮を絶賛する教育が「公の支配に属する」とは到底考えられない。朝鮮学校については無償化どころか補助金でさえ憲法違反だろう。
 私は決して「朝鮮学校にビタ1文払うな」とか「私立校に対する補助金をやめろ」とか言いたい訳ではない。憲法無視が許せないだけだ。憲法を国の根幹としながら勝手な解釈をして実質的に骨抜きにしている現状に憤っている。
 憲法が誤っているなら改正するかあるいは「悪法も法」と諦めて憲法に従うかの二者択一だ。誤ったまま放置して、それを好き勝手に解釈して何でもやりたい放題であることに大きな危惧を抱き、恐怖さえ覚える。出鱈目な解釈によって何でも合憲にできるのなら法治国家ではなく放置国家だ。拘束力の無い役立たずの憲法なら要らない。「新しい時代にふさわしい憲法解釈」(第9条についての安倍首相談)などあり得ない。それは最早、解釈ではなく歪曲あるいは偽造とでも呼ぶべきだろう。その時々の権力者のやりたい放題を司法と国民が許すのなら私一人が逆らっても虚しいだけだ。麦の関税問題と同様、マスコミが権力者と結託して無視するのなら、無名の市井人に過ぎない私一人が騒いでもドン・キホーテになるだけだ。