事実命題を価値命題と摩り替えてはならない。例えば自然界に、弱者が淘汰されるという事実があっても「弱者は淘汰されるべきだ」ということにはならない。あるいはあらゆる動物のオスはできるだけ多くのメスと交尾しようとする。先日の「ダーウィンが来た!」のカブト虫の話は大いに笑えた。交尾したオスはメスを角で投げ飛ばしてしまう。これは一刻も早く他のメスと交尾するためだ。こんな事実があっても「既婚男性の自由恋愛を認めよ」という身勝手な理屈の根拠にはなり得ない。
事実がそのまま価値にはならないことを多くの人が承認するから余り問題は発生しない。問題になるのは価値に基いて事実を歪める人が多いことだ。
例えば「男女は平等であるべきだ」と主張して男女の能力差を認めない人がいる。少なくとも体力においては歴然たる差があるにも関わらずそれを認めようとしない。「吉田沙保里なら男よりも強い」といった無茶な理屈を使ってでも事実を否定しようとする。あるいは「電力が重要だ」と考える人は原発事故が起こるまでは「原発は安全だ」と主張して地震による危険性を絶対に認めようとはしなかった。
「人種差別はいけない」ということに異を唱えるつもりは全く無いが、人種ごとに能力差があるのは確実だろう。スポーツの身体能力では黒人・白人・黄色人種の順で、知的能力はその逆に黄色人種・白人・黒人の順だろう。とは言えこれはあくまで平均値での話であって、イチロー選手以上の黒人アスリートやオバマ大統領やライス元国務長官よりも賢い日本人は稀だろう。人種差を検証することはタブーとされているようだが、能力の違いが人種の優劣を決めるとは思えない。私はむしろ「違いがあるからこそ差別してはいけない」と考える。もし本当に違いが無いのなら差別など起こらないからだ。
このように「初めに結論ありき」では正しい判断はできない。事実=価値ではないが、価値判断は事実によって検証され続ける必要がある。
事実がそのまま価値にはならないことを多くの人が承認するから余り問題は発生しない。問題になるのは価値に基いて事実を歪める人が多いことだ。
例えば「男女は平等であるべきだ」と主張して男女の能力差を認めない人がいる。少なくとも体力においては歴然たる差があるにも関わらずそれを認めようとしない。「吉田沙保里なら男よりも強い」といった無茶な理屈を使ってでも事実を否定しようとする。あるいは「電力が重要だ」と考える人は原発事故が起こるまでは「原発は安全だ」と主張して地震による危険性を絶対に認めようとはしなかった。
「人種差別はいけない」ということに異を唱えるつもりは全く無いが、人種ごとに能力差があるのは確実だろう。スポーツの身体能力では黒人・白人・黄色人種の順で、知的能力はその逆に黄色人種・白人・黒人の順だろう。とは言えこれはあくまで平均値での話であって、イチロー選手以上の黒人アスリートやオバマ大統領やライス元国務長官よりも賢い日本人は稀だろう。人種差を検証することはタブーとされているようだが、能力の違いが人種の優劣を決めるとは思えない。私はむしろ「違いがあるからこそ差別してはいけない」と考える。もし本当に違いが無いのなら差別など起こらないからだ。
このように「初めに結論ありき」では正しい判断はできない。事実=価値ではないが、価値判断は事実によって検証され続ける必要がある。