俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

2015-03-14 10:26:03 | Weblog
 名古屋に「ひつまぶし」という料理がある。鰻の蒲焼きを刻んで入れた混ぜご飯で多分「櫃まぶし」という意味だろう。私はこれを見る度に「暇潰し」と読んでしまう。米屋に「おこめ」と表示してあるとついつい違う言葉を考えてしまうのは決して私だけではなかろう。「会社主義」と「社会主義」も似ているし「ネオコンサバ」を「ネコオバサン」と読んだ人もいる。
 高校生の時にpubic hairという言葉を知った。陰毛という意味だ。この文字はpublicと一字違いだ。音にすれば全然違うが文字では瓜二つだ。こんな正反対の言葉が殆んど同じスペルで困らないのだろうか。
 昔、アン真理子という歌手の「悲しみは駆け足でやってくる」という歌の2番に「♪若いという字は苦しい字に似てるわ♪」という歌詞があったが余り似ているとは思わない。むしろ「崇める」と「祟る」のほうが似ている。老眼が進行中の私には見分けが付かない。こんな懸け離れた意味の言葉に似た文字が使われているのは何等かの事情があってのことだろう。
 同じぐらい判別困難なのは濁音と半濁音だ。大きな文字でなければ区別できない。だからネット上で「ノーバンの始球式」という見出しがあると驚いて思わずクリックしてしまう。
 人は言葉を都合の良いものや関心のあるものと勘違いし易いが、私は決してスケベなことばかりに関心を持っている訳ではない。脳が刺激的な言葉に敏感だからだと思う。
 人は赤い色に反応し易い。赤は血の色であり火の色でもある。だから赤は命に関わる色であり敏感にならざるを得ない。赤信号もその特性を利用しており最も重要な情報である「止まれ」を意味する。
 人は人の顔に異常に敏感だ。人面瘡や人面魚などが週刊誌等で取り上げられることがあるが、目・鼻・口らしきものが見えるだけで人面のように感じる。乳児でさえ目・鼻・口らしき模様に敏感に反応するらしい。この性質は先天的に遺伝子レベルで植え込まれているようだが、後天的に更に強化される。これは、他人の顔を理解することが群居動物として必須の能力だからだろう。顔によって個人を識別するし、微妙な表情から感情を読み取らねばならない。そのために顔らしきものを見ればすぐに反応するという性質が広く人類全体に定着しているのだろう。

両性

2015-03-14 09:43:24 | Weblog
 私は同性愛者ではないが、渋谷区議会に提出された同性のカップルに「結婚に相当する関係」を認める条例案に賛同する。家庭の単位が夫婦や親子でなければならないとは考えないからだ。企業の共同経営者が同性であっても構わないように、同性の他人による家庭があっても構わない。
 しかし「結婚に相当する関係」を認めることと結婚を認めることは異なる。例えば親子関係は夫婦以上に緊密な関係だが、親子で結婚することを認める訳には行かない。
 10日に民主党の細野政調会長は渋谷区のこの条例案について「非常に大きな前進だ」と評価した上で、憲法24条の「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立」という条項を「個人の意思を尊重する趣旨で書かれている」と解釈して「同性婚は憲法上認められている」と主張したそうだ。
 立法府の人間がこんな稚拙な間違いをしては困る。「両性」が男と女という意味であることは小学生でも分かる。「両者」であれば同性でも構わないが「両性」と明記されている以上、同性婚は憲法に背く。これを合憲と判断することは不可能だ。法令に使われている言葉の意味を勝手な解釈によって変えることは許されない。
 私は同性婚があっても構わないと考える。しかしそれは現時点では憲法に背く。だから同性婚を認めるためには憲法を改めるべきであって曲解によって正当化すべきではない。
 契約社会とは言い難い社会に住む日本人は条文を軽視する嫌いがあるが、条文に明示されていることは余計な解釈を加えずにそのまま受け入れねばならない。日本の政治家は成文法の意味を理解していない人が多い。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない(第9条)」と定めてある限り軍隊は持てない。これは当たり前のことだ。
 憲法の曲解は日本人の知性、特に論理的思考力を低下させているようだ。医療の現場では小児に対する使用禁止が明記されている薬であってもしばしば児童に投与される。制限速度40㎞/hの道路では大半の車が速度違反をしている。これらは事故が起こってから初めて問題にされる。日本人は本来ルールに忠実な国民性を持っている。このことは野球やサッカーの国際試合を見れば分かる。日本のチームは多分世界一フェアプレイを尊ぶ。ルール無視を頻繁に行うのは常習犯罪者と政治家ぐらいだ。立法府の人間が最低の人間であるとは全く嘆かわしいことだ。
 ルールは正しく守られることを前提にして定められており個人の意向で曲解できるものではない。現場が恣意的に運用すれば法治国家ではなく放置国家あるいは人治国家になってしまう。ルールは変更可能なのだから誤ったルールであれば改めれば良い。改めずに放置すれば悪用されるだけだ。
 玉虫色の条文のせいで多様な解釈を許すなら法の欠陥であり改正が必要だが、そうでなければ文字通りに読み取るべきであり曲解は成文法の理念を破壊する。