「『梅にウグイス』は翻訳できない」という文章に出会った時、さっぱり意味が分からなかった。しかし実際に自分で翻訳しようとしてすぐに納得できた。梅もウグイスも単数か複数か分からないからだ。イメージとしては単数だがそれは独断だ。だからこれは翻訳できない。
イスラム教はコーランの翻訳を禁じている。コーランを読みたければアラビア語を修得せねばならない。この頑固さのせいでイスラム教はアラブ圏の宗教に留まるのかも知れないが、翻訳が曲解を避けられないことを考えれば充分に納得できる。
キリスト教も長期間翻訳を許さなかった。中世の聖書はラテン語で書かれていたからラテン語の分かる人しか読めなかった。しかしキリスト教は翻訳を禁じていた訳ではない。旧約聖書は元々ヘブライ語で、新約聖書はギリシャ語で書かれていたのだから、ラテン語の聖書は既に翻訳を経た書物だ。それどころかイエスはアラム語を使っていたらしいからギリシャ語の時点で既に翻訳されている。これをマルチン・ルターがドイツ語訳することによって聖書が広く読まれるようになった。
私は聖書の一部をラテン語で読んだことがある。その経験から翻訳することの危険性が理解できる。イエスが裏切り者の出現について予言する箇所だった。
イエスは言った「あなた達の一人が私を裏切ろうとしている。」(中略)ユダが言った「先生、まさか私ではないでしょう。」イエスは言った「いや、あなただ。」
この最後の一言をラテン語から直訳すれば「あなたは言った」だった。これでは意味が分からない。だから「いや、あなただ」と意訳されている。他にも禅問答のような会話があちこちにあり殆んどが意訳されている。ヘブライ語やギリシャ語で書かれた文章をラテン語に翻訳して、それを更に日本語や英語に翻訳していれば意訳に次ぐ意訳で、最初の文章とは懸け離れたものになりかねない。まるで伝言ゲームのようにとんでもないものに変質し得る。それを防ぐために翻訳を許さずに必ず原典に戻らせることは理に適っている。
翻訳書を読む時には誤訳の存在を容認せざるを得ない。例えばシンデレラ姫のガラスの靴は実は毛皮の靴だったし、「日本人はウサギ小屋に住んでいる」という文章の「ウサギ小屋」はフランス語で集合住宅を意味するcage à lapinsを逐語訳したことが招いた誤解だった。
イスラム教はコーランの翻訳を禁じている。コーランを読みたければアラビア語を修得せねばならない。この頑固さのせいでイスラム教はアラブ圏の宗教に留まるのかも知れないが、翻訳が曲解を避けられないことを考えれば充分に納得できる。
キリスト教も長期間翻訳を許さなかった。中世の聖書はラテン語で書かれていたからラテン語の分かる人しか読めなかった。しかしキリスト教は翻訳を禁じていた訳ではない。旧約聖書は元々ヘブライ語で、新約聖書はギリシャ語で書かれていたのだから、ラテン語の聖書は既に翻訳を経た書物だ。それどころかイエスはアラム語を使っていたらしいからギリシャ語の時点で既に翻訳されている。これをマルチン・ルターがドイツ語訳することによって聖書が広く読まれるようになった。
私は聖書の一部をラテン語で読んだことがある。その経験から翻訳することの危険性が理解できる。イエスが裏切り者の出現について予言する箇所だった。
イエスは言った「あなた達の一人が私を裏切ろうとしている。」(中略)ユダが言った「先生、まさか私ではないでしょう。」イエスは言った「いや、あなただ。」
この最後の一言をラテン語から直訳すれば「あなたは言った」だった。これでは意味が分からない。だから「いや、あなただ」と意訳されている。他にも禅問答のような会話があちこちにあり殆んどが意訳されている。ヘブライ語やギリシャ語で書かれた文章をラテン語に翻訳して、それを更に日本語や英語に翻訳していれば意訳に次ぐ意訳で、最初の文章とは懸け離れたものになりかねない。まるで伝言ゲームのようにとんでもないものに変質し得る。それを防ぐために翻訳を許さずに必ず原典に戻らせることは理に適っている。
翻訳書を読む時には誤訳の存在を容認せざるを得ない。例えばシンデレラ姫のガラスの靴は実は毛皮の靴だったし、「日本人はウサギ小屋に住んでいる」という文章の「ウサギ小屋」はフランス語で集合住宅を意味するcage à lapinsを逐語訳したことが招いた誤解だった。