大塚家具のお家騒動は大塚久美子社長の勝利に終わった。この名前を見る度に視力の衰えた私は「大場久美子」と誤読をして、かつてのアイドルを懐かしく思った。
この内紛を一部のマスコミは、久美子社長を「かぐや姫」と名付けて面白おかしく報じていたが、中国や韓国ではこんな騒動は起こらないだろう。「孝に背く」として子供の側が袋叩きに会うからだ。儒教道徳の社会では孝という原理が最優先される。孝を欠くことは人間として許されないこととされている。
孝を重視することは良いことだ。しかし孝が「公」よりも優先されれば困ったことになる。中国や韓国で汚職が後を絶たないのは孝重視と無関係ではないようだ。一族の誰かが社会的に高い地位を得た場合、親族はその親に働き掛けて利益を得ようとする。血縁関係の濃厚な社会だから、親からの口利きを粗末には扱えず縁故採用や縁故取引が横行することになる。まるで昔の日本の村落のような縁故社会が今も続いているらしい。
かつてアメリカ人のプロ野球選手が、子供の病気を理由にして帰ってしまったことがあった。多くの日本人は「日本を舐めている」と憤ったものだが、最近では個人の価値観の違いを認めて余り非難しなくなった。しかし儒教道徳は全く違う。親に何かがあれば何が何でも最優先せねばならない。それが社会としてのルールだ。
モラルとしての孝は好ましいが孝がルールになれば生き辛くなりそうに思うが、ルールになることによって却って葛藤が少なくなるようだ。これは、アメリカに住む非暴力主義者なら護身のために銃を持つかどうか悩むところだが日本のように最初から禁じられていれば悩む必要が無いのと同じようなことだろう。
大塚家具の場合、単なる親子喧嘩ではなく経営戦略を巡る争いだ。個人商店ではないのだから親子喧嘩などと問題を矮小化すべきではなかろう。久美子社長は孝よりも公、つまり経営者としての責任を優先した。たとえ親子であろうとも公的立場においては私情を挟むべきではなく、公よりも孝を優先すべきとは思えない。同じ二世経営者による騒動でも韓国のナッツ姫とは違って、日本のかぐや姫は、2割の株を握る大株主である父・勝久会長に圧勝したのだから、株主からの支持を得たと言えるだろう。孝は重要ではあるが公とのバランス感覚が必要だ。それを欠いたらそれこそ公私混同になってしまう。
この内紛を一部のマスコミは、久美子社長を「かぐや姫」と名付けて面白おかしく報じていたが、中国や韓国ではこんな騒動は起こらないだろう。「孝に背く」として子供の側が袋叩きに会うからだ。儒教道徳の社会では孝という原理が最優先される。孝を欠くことは人間として許されないこととされている。
孝を重視することは良いことだ。しかし孝が「公」よりも優先されれば困ったことになる。中国や韓国で汚職が後を絶たないのは孝重視と無関係ではないようだ。一族の誰かが社会的に高い地位を得た場合、親族はその親に働き掛けて利益を得ようとする。血縁関係の濃厚な社会だから、親からの口利きを粗末には扱えず縁故採用や縁故取引が横行することになる。まるで昔の日本の村落のような縁故社会が今も続いているらしい。
かつてアメリカ人のプロ野球選手が、子供の病気を理由にして帰ってしまったことがあった。多くの日本人は「日本を舐めている」と憤ったものだが、最近では個人の価値観の違いを認めて余り非難しなくなった。しかし儒教道徳は全く違う。親に何かがあれば何が何でも最優先せねばならない。それが社会としてのルールだ。
モラルとしての孝は好ましいが孝がルールになれば生き辛くなりそうに思うが、ルールになることによって却って葛藤が少なくなるようだ。これは、アメリカに住む非暴力主義者なら護身のために銃を持つかどうか悩むところだが日本のように最初から禁じられていれば悩む必要が無いのと同じようなことだろう。
大塚家具の場合、単なる親子喧嘩ではなく経営戦略を巡る争いだ。個人商店ではないのだから親子喧嘩などと問題を矮小化すべきではなかろう。久美子社長は孝よりも公、つまり経営者としての責任を優先した。たとえ親子であろうとも公的立場においては私情を挟むべきではなく、公よりも孝を優先すべきとは思えない。同じ二世経営者による騒動でも韓国のナッツ姫とは違って、日本のかぐや姫は、2割の株を握る大株主である父・勝久会長に圧勝したのだから、株主からの支持を得たと言えるだろう。孝は重要ではあるが公とのバランス感覚が必要だ。それを欠いたらそれこそ公私混同になってしまう。