俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

愚痴

2015-05-21 10:36:11 | Weblog
 愚痴を聞かされる側は迷惑だ。共通の知人の悪口であればそれなりに盛り上がることもできるだろうが、家族や健康に関する愚痴はつまらない。しかしどんなつまらない愚痴であろうとも同情するポーズを示さねばならない。
 愚痴をこぼす側にとってはカタルシスになるかも知れないが、聞かされるほうは不愉快な気分になるだけだ。群居動物である人類は感情を共有する。こぼす側は不満を撒き散らすことによって楽になるが、こぼされる側は憂さ晴らしの道具として利用されるだけだ。
 広辞苑によると愚痴とは「言っても仕方の無いことを言って嘆くこと」と定義されている。この点が相談とは根本的に異なる。相談であれば協力して解決策を考えることができる。ところが愚痴をこぼしている人に対して解決策を提案すれば多分怒られることになる。例えば「息子が逆らって困る」という愚痴に「こう指導すれば良い」などと言えば「親身になってくれない」と非難されてしまう。苦労していることに同情して慰めて欲しいだけだ。
 愚痴っぽさは女に多く男には少ない。これは競争的な男と協調的な女という違いの現れだろう。競争的な男は弱みを見せまいとするから愚痴は女々しい行為として軽蔑の対象になる。協調的な女は傷を舐めあうことによって同病相憐れむ同盟関係を築こうとする。不満に対して雄々しく立ち向かうか、犠牲者として耐え忍ぶかは生き方の根本的な違いになる。私は決して女嫌いではないつもりだが、女の愚痴に付き合うことだけは御免蒙りたい。
 私は韓国の朴クネ大統領が大嫌いだ。かつて「告げ口外交」と非難したことがあるが、もっと不快な「愚痴政治家」と評価し直したい。問題が起こっても根本的な対策を講じることなく只管同情を集めようとする。まるで白馬に乗った騎士による救助を待ち望むオバさんのように思える。多分あのナッツ姫と同様、子供の頃から蝶よ花よと育てられて、周囲に責任を押し付けるような生き方しか知らないのだろう。首相を誰も引き受けようとしないのは、大統領を守る防波堤として使い捨てにされることが分かっているからだろう。こんな姿勢は政治家として余りにも情けない。韓国の儒教的男尊女卑文化の犠牲者なのかも知れないが同情する気にはなれない。軽蔑するだけだ。政治家であれば「鉄の女」サッチャー元首相のように強い女であるべきだろう。所詮、親の七光の無能な二世政治家なのかも知れない。こんな大統領を選んでしまったことは韓国民にとっては大変な不幸だ。

所有

2015-05-21 09:53:15 | Weblog
 殆んどいなくなっていたアユが多摩川に戻って来たらしい。但し縄張りを持たない不思議な性質のアユらしい。通常アユは縄張りを持つ。それも、他の動物とは違って、オスだけではなくメスまで縄張りを持って侵入者には体当たりをする。この習性を利用して囮アユに仕掛けた掛鈎で釣るのが友釣りだが、多摩川ではこの手法が通用しないらしい。
 ではなぜ縄張りを持たないのか?藻が豊富であることが原因と言われている。縄張りを作ることが本能に組み込まれている筈のアユが、餌さえ豊富であれば縄張りを作らないとは全く驚くべきことだ。
 アユより遥かに高度な知性を持つ人類にも同じようなことが起こるのだろうか。歴史を繙けば多くの事例が見つかる。古代中国の北方にいた遊牧民族の殆んどが土地を所有しなかった。私財は移動式の住居と家畜だけだった。ネイティブアメリカン(インディアン)も土地を所有していなかったから悪い白人に騙されて土地を取り上げられた。
 土地以上に海は領有されなかった。海の一部とも言える無人島の領有権が問題になることなど殆んど無かった。近現代になってから海や無人島の領有権が争われるようになったのは海洋資源が原因だ。当初は漁業権であり、昨今では以前であれば手を付けられなかった海底資源が目的だ。中国はそれ以外に制海権も狙って、近隣国との関係悪化を招いてでも無人島を領有しようとする。
 私はフィリピンのビーチが好きだが1つだけ嫌なことがある。セブ(マクタン)島のビーチのホテルが互いに堤防を設けて隣との境界を定めていることだ。境界を作れば清掃などの責任範囲が明確になるが、せっかくの広いビーチが分断されて何とも興醒めだ。
 ここに10人いて11人分の料理があるとする。これをちゃんと分ければ一人分余る。余った分は食べ足りないと思った人が食べても構わないだろう。ところが分けずに奪い合いにすれば忽ち足りなくなる。分け合えば余るのに奪い合えば足りなくなる。奇妙な話だ。現在、世界の食料は必要量以上に生産されているにも拘わらず飢えに苦しむ人が少なくないのは奪い合っているからだろう。
 もし総ての土地が私有されたら生活は成り立たない。共有される通路があるからこそ人は自由に生活できる。私有財産を否定する気は無いがもっと上手く共有できないものだろうか。
 道路の渋滞のニュースを見る度に鉄道の便利さと有益性を痛感する。もし都会に鉄道が無ければどれほど不便だろうか。鉄道という公共交通機関が無ければ道路は自動車で溢れ返って通行不可能になるだろう。鉄道という共有財産があるからこそ私有の自動車による交通が可能になっている。私有と共有は共存可能なだけではなく、そうすることが必要不可欠だ。