俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

適者

2015-02-18 10:12:21 | Weblog
 進化論を嫌う人が時々いる。科学理論が嫌われるのは異例だ。科学理論とは事実についての描写であり、正誤の判定こそあれ、好き嫌いという判断は通常あり得ない。
 キリスト教徒などの場合、人は神によって創造されたと信じているから進化論は聖書に背く。これなら理解できる。しかし日本人の場合、弱肉強食を正当化する理論という誤解に基づいて嫌っている人が少なくない。どうやってこんな誤解をするのか私にはさっぱり分からない。
 進化論のキーワードは適者生存と自然淘汰、そして今回は触れないが性淘汰(種族内淘汰)だ。弱肉強食や優勝劣敗という考え方はどこにも無い。全くの誤解だ。
 適者という概念に対する無理解がこの誤解の原因だろう。適者とはその環境に適応したものという意味であり強者という意味を全く持たない。適者=強者という図式は世界を優劣や強弱というレベルでしか捕えていない。こんな偏見を持っているから進化論を誤解する。
 適者とは強弱とは全く別次元の概念だ。その環境に適応できるかどうかだ。暑さに強い生物は熱帯での適者であり、寒さに強ければ寒帯での適者だ。強弱や優劣という捉え方とは全く逆に、価値の多様性と相対性を全面的に認めていることが進化論の特徴だ。だから一元論的価値観を最も痛烈に否定するのが進化論だ。
 オーストラリアとニュージーランドには飛べない鳥が沢山いる。かつてはもっと多くいた。ここには猫がいなかったからだ。猫に襲われなければ鳥は飛んで逃げる必要が無い。猫のいない世界では飛ばない鳥が適者だった。
 深海魚の多くは深海を離れることができない。高い水圧に耐えられる体に進化しているからだ。彼らは深海における適者だ。
 地球上の総ての生物は地球の、その特定の環境に適応した生物だ。人類は現在の環境に適応しているから増殖した。環境が変わればゴキブリやネズミの天下になるかも知れない。
 進化論を学べば世界が非常に多様であることに気付く。狭い人間社会が総てと思うような偏狭な考えから解脱できる。増してや国や宗教が植え付けようとする理念がどれほど邪悪であるかが分かる。環境は無限のバリエーションを持つのだから適者も無限種あり得る。だからこそ世界には多様な動植物が総て適者として生存している。

優劣

2015-02-18 09:36:58 | Weblog
 個人の違いを認めたがらない人がいる。平等であるためには人は等質であるべきだと考える人だ。こんな人は男女さえ同じだとまで言う。この考え方の根本的な誤りは何にでも優劣を付けたがることだ。私は彼らとは全く逆に、個人差はあるがそれが優劣を意味しないと考える。違いとは優劣ではなく個性だ。
 人には個人差がある。身長の高低、体重の軽重、肌色の濃淡、毛髪の多寡、性器の大小、これらは個人差であって優劣ではない。体重50㎏と70㎏はどちらのほうが優れているだろうか。当然決められない。決めるのは独断であり主観に過ぎない。個体差は優劣ではない。
 当たり前のことだが男女の違いも優劣ではない。異なった肉体を持ち異なった能力を持つ。質的に異なるものに優劣は付けられない。
 相撲なら大きくて重いほうが有利だが騎手なら小さくて軽いほうが有利だ。これらは特殊な目的のための優劣に過ぎず普遍的な基準にはなり得ない。一元論的な価値観を持つ人が安易に優劣を決め付ける。
 個体差に優劣を付けることは無意味だ。何かのための適性はあり得るが、あくまでその目的のための優劣に過ぎない。積極性と消極性のどちらが良いか、あるいは自主性と協調性のどちらが優れているかなど決められない。個性としてどちらも肯定されるべきだろう。優劣を競えば勝者と敗者に分かれるが競わなければ勝者も敗者も無い。
 犬と猫はどちらが優れた動物だろうか。これも決められない。人だけではなく動物にも優劣は無い。市場での価格差はあるがそれは絶対的な尺度ではない。所詮、趣味の問題だ。
 運動神経が優れていると評価される人がいる。スポーツ万能であればそう評価される。しかしこれは必ずしも正当ではない。彼らの多くは水泳が苦手だ。単に足が早いだけのことが少なくない。足が早いだけで多くの陸上スポーツでは優位に立てる。頭が良いという評価もこれと似たようなものなのかも知れない。
 人の価値基準となり得るのは病と老ぐらいではないだろうか。これらは誰も望まないからだ。病みたいと思う人も老いたいと思う人もいない。だからこれらは好ましくないと評価できる。
 但し老いは微妙だ。肉体的には25歳ぐらいをピークにして老化が始まるが、技術や知恵は老熟や老成や老練が可能だ。老は病ほどには忌み嫌うべきことではないのかも知れないが、老化の多くは劣化であり可能な限り回避したいと思う。

事実と願望

2015-02-16 09:36:37 | Weblog
 事実に敵対するのは願望だ。通常、事実の反対語は虚構だが、虚構を要請するのは願望だ。願望があるからこそ事実を否定して虚構を捏造する。
 死んだ人は生き返らない。この事実を認めたくない人が転生や来世や天国を捏造する。願望に基づく妄想が事実を否定する。
 癌や認知症だけではなく風邪でさえ現時点では治療できない。この事実に背こうとするから無駄な治療をして却って死期を早めたり悪化させたりする。
 従軍慰安婦の強制連行は無かった。朝日新聞はそれまでの嘘を糊塗するために嘘に次ぐ嘘、詭弁に重ねる詭弁という最悪の戦略を選んだ。朝日新聞は嘘をつきたかった訳ではない。過去の過ちを認めたくなかっただけだ。
 膨大な金を注ぎ込んで開発した新薬であれば有効であって欲しいと思うのは当然のことであり、この願望は正当だ。もしかしたら薬効データの捏造は学者が勝手にやったことなのかも知れない。学者がスポンサー企業の期待に応えたいという気持ちは理解できる。彼らがデータに手心を加えたのは事実よりも願望が優先したからだろう。実は統計で嘘をつくことは意外なほど易しい。膨大なデータから都合の良いところだけを抽出すれば勝手な結論に簡単に導ける。統計に基づく資料が出されても鵜呑みにはせずに元データを検証する必要がある。
 人はその人独自の経験しかできない。偏った経験に基づいて歪んだ願望を持つ。歪んだ願望を是正するためには新しい経験を素直に受け止めることが必要だ。過去の経験に基づいて新しい経験を否定するのではなくそれまで知らなかった事実の存在に目覚める必要がある。一神教という歪んだ世界に生まれ育った人には日本人のような無信仰あるいは八百万神(ヤオヨロズノカミ)信仰は考えられないことだろう。それを受け入れれば新しい世界観が生まれる。
 人間は本質的に事実よりも願望を優先するものだ。見たいものしか見ないし聞きたいことしか聞こえない。それどころか、不思議なことに治りたいと思うだけで病気まで治してしまう。偽薬(プラシーボ)は本当の薬の2~8割程度の治療効果があると言われている。だから新薬の効果を測るためには二重盲検法という手法が使われる。この実験では患者だけではなく医師までが偽薬かどうかを知らされていない。そこまでやらないと思いこみだけで偽薬が治療効果を発揮してしまう。このことに付け込んで様々な健康法や健康食品が雨後のタケノコのように現れる。これらは暗示療法あるいは催眠療法とも呼ばれておりしばしば実際に効果を発揮する。治りたいという願望は正当なものだがそのせいで良いものと悪いものの区別が付かなくなるのだから困ったことだ。

自由放任

2015-02-16 08:54:54 | Weblog
 アダム・スミスの言う「神の見えざる手」とは適者生存のことではないだろうか。人であれ組織であれ、それぞれが正しいと思うことをする。それが実際に正しかったかどうかはその時点では分からない。あとから「正しかった」と分かる。
 私は競馬も競輪もやらないので詳しくは知らないが、競馬場には予想屋がいるそうだ。彼らは直前のレースを当てたことを自慢して予想紙を売るらしい。直前のレースを当てることは偶然に過ぎない。様々な予想をすればどれかが当たる。
 斜陽産業と言われ続けている百貨店が存続しているのはそれが「百貨」を扱っているからだ。主力商品を呉服から婦人服、食料品と次々に切り替えていればどれかが売れる。下手な鉄砲も数撃てば当たる、ということだ。
 自由放任であれば人も企業も様々な戦略を選ぶ。それが多様であればあるほどどれかが当たる。
 進化論においてラマルクの用不用説は否定された。幾ら首を伸ばそうと努力してもその特性は個体だけのものであり、獲得形質は遺伝しないのだから目的論では進化を説明できない。ダーウィンは自然淘汰を進化の鍵とした。つまり個々にバラバラに起こる変異がたまたま環境に適していれば多くの子孫が残りその特性を持つ者が栄えるということだ。それどころか禍い転じて福となす、ということまであるようだ。一説によるとキリンの首が長くなったのは感染症が原因だったと言う。奇病によって首が長くなり大半が死滅したが、高血圧という別の病気を併せ持っていた個体だけが生き延びて新しい種になったとのことだ。こうして獲得した異常に長い首を持つキリンは他の動物とは違う高い所の葉を食べることが可能になった。
 未来のことは分からない。為替レートがどうなるかも気候がどう変動するかも分からない。分からない時に必要なことは多様であることだ。選択肢は無数にあるのだから各自が最適と思うことを選んでいればどれかが当たる。同一の対策を選ぶことが最悪だ。当たれば良いが外れれば全滅する。外れて全滅するよりも一部が生き残ったほうが種の繁栄に繋がる。
 セレンディピティという言葉がある。努力していれば思わぬ僥倖が訪れるという意味だがこれは「怪我の功名」の類義語だろう。目的を持って行動することは必要だが、どれが正しかったかは結果が出てから確定する。try and errorとか「やってみなはれ」といった指導が称賛されるのはそれが成功した場合に限られる。やってみて成功するよりも失敗することのほうが遥かに多い。しかしやってみなければ新しい成功はあり得ない。
 多様であることこそ進歩の鍵だ。画一化は最悪の戦略だ。

進化する社会

2015-02-14 10:07:20 | Weblog
 生物の進化の鍵を握るのは個体差だ。生物はそれぞれ微妙に異なり、その中で比較的良く環境に適応した個体が多くの子孫を残す。次の世代でもやはり良く環境に適応した個体が増える。この積み重ねが進化を導く。ダーウィンが進化論の構想を得たガラパゴス諸島では島ごとに環境が異なるためにそれぞれに適応した動植物が棲んでいた。もし個体差が無ければ適者生存の法則が働かず単に運の良い個体が生き延びることになり進化しない。個体差があるからこそ進化が起こる。
 もし完全な生物であれば進化する必要は無い。しかしそんなことはあり得ない。環境は常に変化するからいずれ環境の変化に取り残されて絶滅する。だから個体差の大きい種のほうが環境の変化に強い。どれかが生き延びて子孫を残すからだ。多様性が求められるのはこういった事情があるからだ。その逆が近親交配であり劣性遺伝子が発現し易い。
 それぞれの企業は異なった活動をする。その活動が良ければ繁栄し悪ければ衰退する。こうして良い企業が増え悪い企業は減る。ソ連の企業は中央集権支配だったから総てが駄目になった。個々が異なるからこそ栄枯盛衰がある。
 官公庁はルールや慣例に従って同一の対応をする。だから進化しない。いつまでも同じ状態のままだ。シーラカンスのように昔の姿のままで生き長らえる。官公庁は進化しにくい仕組みだから常に時代遅れになる。進化を繰り返す民間企業と比べて数世代古い体質を温存している。首長や政治家などが改革しなければいつまで経っても古い体質を改めない。
 日本の医療が進歩しないのは官公庁が主導するからだ。厚生労働省が標準治療を定めてそれをなかなか改めようとしない。被害が拡大したり外国で否定されて初めて問題点が検討されるというとんでもない体質だ。もっと速やかに見直せる体制に改めなければ国民は犠牲にされ続ける。しかし厚労省と製薬会社とマスコミという悪のトライアングルを打破することは難しい。敵は余りにも強力だ。
 法律は頻繁に改正される。社会が変化するのだからそれに適応せねば時代にそぐわない悪法になる。法律が進化しなければ悪法を悪用する人が続出することになる。憲法もいつまでも不磨の大典扱いをせずに是々非々で見直すべきだろう。機械と同じように修繕されなければ劣化し続ける。進化しないものは実質的に退化している。

使い捨てライター

2015-02-14 09:31:29 | Weblog
 マスコミは非正規雇用問題を報じるが、マスコミが悪用している超非正規雇用こそより重大な問題ではないだろうか?フリージャーナリストこそ超非正規雇用労働者だ。マスコミは彼らを食い物にしている。
 正規のジャーナリストになることは難しい。その一番の原因はコネ入社だろう。大手のマスコミがコネ採用をしていることは公然の秘密だ。大企業の幹部や著名人の子息を優先的に採用する。それは本人の資質ではなく親とのパイプ役として利用するためだ。VIPとの深い繋がりがある人を外してまでわざわざ馬の骨を雇用する必要は無いと彼らは考える。
 本来ジャーナリストとしての能力がありながら閉め出された人はどうするだろうか。他の業種を選ぶかフリージャーナリストになるかしか無い。こうして多くの有能な人材がフリージャーナリストの道を選ぶ。
 フリージャーナリストの社会は厳しい。普通の取材をしていては仕事にならない。ここでは正規のジャーナリストのほうが圧倒的に優位だ。企業の看板を背負った記者に太刀打ちできないからニッチ(隙間)を狙わざるを得ない。空いている場所は非合法の世界だ。戦場が多く選ばれるのはそこが法の支配を受けないからだ。彼らは好き好んで危険な場所を選ぶ訳ではない。そこにしか仕事が無いからだ。
 正規のジャーナリストは記者クラブなどで表の情報を得る。裏の世界の情報集めは非正規ジャーナリストの仕事だ。こうして安全な仕事と危険な仕事の住み分けが行われる。
 フリージャーナリストの仕事は「売れてなんぼ」の世界だ。だから高く売れる情報、より高く売れる情報が求められる。こうして身の危険も顧みず自己責任で危険地域に赴く。
 マスコミはフリージャーナリストを利用し尽くす。こんな便利な捨て駒は無いからだ。自らの意思で危険を冒して貴重な情報を提供してくれる。まるで決死隊の志願兵のような存在だ。
 非正規雇用労働者の立場は弱い。雇い止めを食らう恐れが常にある。フリージャーナリストの不安定さはそれどころではない。そもそも雇用関係さえ無い。どんな危険な仕事であろうとも自己判断と自己責任で行ったことにされている。
 雇用関係も依頼責任も発生しないフリージャーナリストはマスコミにとっては格好の使い捨て「ライター」だ。
 非正規雇用、コネ入社、あるいは偽装といった問題をマスコミは社会悪として糾弾する。しかし当のマスコミこそこんな悪弊の温床なのではないだろうか。敵に回すと怖いマスコミを告発することは無名人にしかできないことだろう。

償えない罪

2015-02-12 10:18:47 | Weblog
 償える罪と償い切れない罪がある。窃盗は償える罪だ。窃盗が許される犯罪とは言わないが2倍ほど返せば被害者も納得してくれるだろう。
 殺人は償えない罪だ。死んだ人を生き返らせることはできないのだから倍返しどころか原状復旧さえできない。被害者の命と加害者の命は等価ではないから死刑になっても釣り合わない。遺族はこの不満を解消するために地獄を捏造する。加害者は地獄の業火で未来永劫焼かれ続けると想像して初めて納得する。しかしこれは事実ではない。妄想に頼った慰めに過ぎない。
 フリーカメラマンがシリヤに渡航しようとしてパスポートを没収された。これは当然のことだろう。カメラマンは命懸けでISIL(イスラム国)に接近して上手く行けば一儲けするつもりだろう。失敗しても自分が死ねば済むことだと考えているのだろう。
 それでは済まないということを理解していないのだから彼はテロリストと同類だ。テロリストは自分の命と引き換えであれば何でも許されると考えている。個人にとって自分の命は最大の担保だ。だから命と引き換えであれば総てが許されると考える。自分の命を以っても償えない罪があるとは考えないが、テロリストの命と犠牲者の命は全く釣り合わない。
 ISILにあっさり殺されればそれで済むが、人質になった時に日本社会が被る迷惑は測り知れない。外務省も政府も本来もっと有意義な活動に使うべき多くの時間や労力が浪費させられる。テレビの視聴者も人質騒動に振り回される。これは何百億円の罰金を支払っても償えない。だから本人は最初から償う気など無い。自分にとって最も大切な命を担保にするのだから総て償えると思っている。
 自由は責任が取れる範囲でのみ許される。責任が取れないレベルになってしまえば「無い袖は振れない」ということになってしまう。
 あの無責任なマスコミも自ら危険地域には立ち寄らない。問題が発生すれば本人だけではなくその上司や会社も責任を問われるからだ。だからフリージャーナリストを利用する。個人であれば個人を超えた責任を問えないので責任逃れができる。
 マスコミの責任逃れのためにフリージャーナリストは使い捨てにされる。その死後には「真のジャーナリストだった」という追悼記事が掲載されて英雄に祭り上げられる。しかしこれは次の手駒を得るための卑劣な罠だ。彼らには罪を犯していると言う意識が無いのだから、罪を償おうとする筈が無い。

使い捨て

2015-02-12 09:39:19 | Weblog
 シリアに渡航しようとしたフリーカメラマンがパスポートを没収された。朝日新聞など一部のメディアはこれを報道の自由に対する侵害と非難しているがこの問題の背景を考える必要がある。
 悪ふざけの映像をネットに投稿する人が後を絶たない。これはそれを喜ぶ人がいるからだ。馬鹿な視聴者がいるからこそ馬鹿な投稿をする。つまり馬鹿な視聴者が馬鹿な投稿を奨励している。
 テレビ番組でも同じことだ。くだらない番組が多いのはくだらない番組を喜ぶ視聴者が多いからだ。視聴率第一で考えるから衆愚に迎合して番組が作られる。
 ここで問われるべきなのはマスコミ側の姿勢だ。視聴者に迎合すべきなのか逆に視聴者を啓蒙すべきなのかが検討されるべきだろう。残念ながら日本のマスコミは質を落としてでも視聴者・読者を増やそうとする。マスコミ人としての誇りは乏しい。
 最近では余り使われないが「トップ屋」という言葉がある。特ダネ狙いの記者のことだ。彼らは多少汚い手を使ってでも他人を出し抜こうとする。この体質が今でもマスコミには残っている。結果良ければ総て良しとする悪しき成果主義だ。
 マスコミは危険な取材を喜ぶ。無謀な記者を英雄扱いする。だからフリージャーナリストは一攫千金あるいは起死回生を目論んで危険地域に集まる。彼らは命懸けで危険地域に赴き特ダネを提供する。フリージャーナリストが死んでも自己責任だ。彼らは勝手に危険地域に行って勝手に死んだことにされる。マスコミには何の責任も無い。
 これがマスコミの狡さだ。自分達は高みの見物を決め込んでフリージャーナリストに危険な業務を押し付ける。誰の指示も指導も無く勝手にやったことだから自己責任だ。これが使い捨ての記者だ。
 フランスでの事情は全く違う。まともな報道機関はこんな危険請負業者を初めから相手にしない。ちゃんと事前に契約して事故を防ぐために充分な計画を練る。つまりフランスでは良識ある報道機関が無謀な取材を抑止しているが、日本のマスコミは逆に危険な取材を歓迎して煽り立てている。一旗揚げようとするフリージャーナリストを使い捨ての駒として利用する。フランスの政府がジャーナリストの渡航禁止措置を必要としないのは報道機関に良識が備わっているからだ。政府を批判する前にマスコミは自分達のダーティビジネスに対する反省が必要だろう。
 大半の事業には下請法が適用される。これは大企業による搾取を防ぐためだ。ところがマスコミは、下請けに当たるフリージャーナリストに危険な仕事を丸投げしている。契約も何も無い出来高払いだ。これを彼らは「自由競争」と称するが悪辣な使い捨てだ。

追い焚き

2015-02-10 10:14:11 | Weblog
 浴槽に追い焚き機能が備わっているのは日本の風呂だけだろう。十数か国を旅行したが追い焚き機能のある風呂に出会ったことが無い。湯がぬるくなったら熱湯を注入して水温を上げる方式ばかりだ。
 追い焚きという機能が必要なのは同じ湯を使い回す日本人だけのやり方なのかも知れない。他人が浸かった湯に入りたくないという気持ちも理解できる。使い切りが当たり前だからこそバブリングのような入浴法があるのだろう。日本の風呂でバブリングをする人は殆んどいないだろう。
 ローマには公衆浴場があったがそこではどうしていただろうか。焼いた石で加熱するのではなく、現代の欧米と同様の注水式だったらしい。3種類の温度の湯を用意してそれを適宜補充していたそうだ。しかし伝染病が広まったことやキリスト教道徳の拡張などによって廃れた。
 日常生活では気付かないが湯船に浸かるという習慣は非常に特殊な日本独自のものらしい。しかしこの全身を温めるという方法はかなり効果的な健康法なのではないだろうか。暑いのは有害でも温まることは有益だろう。
 私個人はこの数年、念に1・2度ぐらいしか入浴していない。毎日泳いだあとでシャワーを浴びるから入浴は面倒だ。清潔という観点ならこれでも良かろうが健康法として考えるなら習慣を改めたほうが良いのかも知れない。
 国内では故障とは無縁のタフな投手だった田中投手やダルビッシュ投手、あるいは藤川投手などがアメリカでは相次いで肩や肘を傷めるのは温浴をしないからではないかと私は考えている。食生活は勿論、様々なことに彼らは気を配っているだろうが、まさか温浴がそれほど有効とは思っていないだろう。
 外国にも温熱療法やカイロプラクティックのように温めることで機能を回復させる療法がある。日本には湯治という民間療法が昔からある。これが有効なのは温泉の成分による化学効果ではなく温浴という物理効果に基づくのではないだろうか。案外このあたりに日本人の長寿の秘訣があるのかも知れない。

試行錯誤

2015-02-10 09:41:58 | Weblog
 問題が発生した時、2つの選択肢からどちらかが選ばれる。何等かの手を打つか、もう少し様子を見るか、だ。対策をしても成功するとは限らない。それまで行われていたことを改めるのだから違った問題が発生するかも知れない。例えば年功序列型の賃金体系を成果主義に変えればその弊害は必ず生じる。
 広く行われているのはむしろ模様見だ。慌ててジタバタするよりも情勢の変化を見てそれから対応しようとする。例えば円高の時に過剰対応した企業は円安の現在、新たな問題を抱え込む。一時的な円高に慌てなかった企業のほうが安定した経営をしている。
 日本人の基本的な意識構造は「台風一過」だ。災害もトラブルも一過性のものであり耐えていれば禍いは立ち去ると考える。しかしこんな意識だから問題の先送りが横行する。国の借金が膨らもうと年金財政が破綻しそうになろうとも対策を講じるよりも先送りを狙う。領土問題も同様だ。先送りによって問題が放置されることになる。
 日本人は正解の無い問題には手を付けたがらない。たとえ90%が解決されても問題が残る限りそれは正解とは見なされない。こうして問題が先送りされる。
 日本史では突然歴史がひっくり返る転換点が何度も現れる。鎌倉幕府の成立や明治維新や織田信長による改革などだ。日本社会は徐々に変わるよりも強権的に変えられることのほうが多い。社会の矛盾が長く放置された末、大変革が起こされる。
 生物の進化は試行錯誤の賜物だ。それぞれが微妙に異なる生物のほんの少しの違いに適者生存というふるいが掛けられることによって多様な動植物が現れた。どの動植物もその環境における最適者だ。大空を飛翔する鳥でさえ試行錯誤の結果生まれたと考えれば試行錯誤には無限の可能性があるように思える。鳥も人も試行錯誤の産物だ。
 変異が進化を生む。護送船団方式によって日本の銀行は弱体化して、それぞれが独自の道を歩んだ自動車業界は繁栄した。
 改革は軋轢を生み易い。改革案の90%以上は改善ではなく改悪に繋がる。国家レベルでの改革は取り返しが付かないことを招くかも知れない。だから大多数の人は改革を嫌い抵抗勢力になる。これではいつまで経っても改善されない。もっと「お試し」があって然るべきだろう。改善になるかどうか分からなければ小規模な実験をすれば良い。例えば救急車の有料化についても不毛な議論で正解を求めるよりもどこかの自治体で実験をして、結果が良ければ徐々に拡大すれば良い。失敗を過度に恐れるべきではない。生物と同様、社会も試行錯誤を通じて進化するものだろう。やってみて失敗すれば元に戻せば済むことだ。エジソン曰く「私は決して失敗などしない。どんな失敗でも成功への一歩になる。」