俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

二日酔い

2015-05-13 09:38:30 | Weblog
 二日酔いは不快だ。二日酔いが起こるのは肝臓による分解能力を超える量の酒を飲んだからだ。従って肝機能を支援すべきであり、肝臓に新たな負担を強いる迎え酒は最悪の対策だ。それにも拘わらず多くの人が迎え酒という罠に嵌る。これはなぜだろうか。
 快癒のプロセスが不快感を伴うからだ。これは二日酔いに限った話ではない。薬物中毒であれ病気であれ怪我であれ、快癒するための生体反応が不快感を伴う。この不快感は免疫力が働いていることの表れであり、不快は快癒のための必要条件とも言える。だから不快感を抑える行為が治癒の妨害となることが少なくない。それは消火のために駆け付ける消防車の妨害をするような愚行だ。
 治癒が不快感を伴うのは安静を促すためであり、怪我が痛むのは患部を動かさないようにさせるためだろう。自然治癒力が充分に働くために余計なエネルギー消費を控えるという目的にも適っている。この生体反応の邪魔をすべきではない。
 迎え酒によって不快感が減るのは不具合を感知するセンサーが麻痺させられるからに過ぎない。不具合を感知する中枢神経を狂わせれば不快感だけが解消され、不具合は放置される。これは目を閉じても見たくない物が無くならないのと同じことだ。見えないことと存在しないことは全く別だ。知覚を狂わせることは不具合の温存にしかならない。ガス漏れ報知器が幾らうるさくても、すべきことはガス漏れを直すことであって報知器の電源を切ってはならない。
 風邪をひけば熱が出る。これは自然治癒力が働いているからだ。発熱することによって熱に弱い病原体の活動を抑え、同時に免疫力を活性化する。熱を下げることは治癒力の妨害になる。打撲をすれば腫れる。これは血流を増やすことによって治癒力を高めている。薬で腫れを抑え込むことは治癒力の妨害になる。腫れを予防するためにアイシングをすることも自然治癒力を働きにくくすることに繋がるだろう。
 麻薬から逃れられない最大の理由は禁断症状が苦しいかららしい。医師は麻薬や迎え酒の有害性なら理解している。しかし対症療法の有害性を全く理解せずに、病気や怪我を悪化させる行為を治療だと思っている。快癒することは不快感を伴う。これは言わば産みの苦しみであり、機能回復のための生体反応を押さえてしまえば快癒できなくなる。

譲歩

2015-05-11 10:23:11 | Weblog
 人は自分の直接的な利害だけを基準にして行動する訳ではない。もし行く手を遮られれば人は不快に感じるが、それが道を尋ねるという目的を持っていれば、誰もが快く応じる。そのために被る損害は、道に迷っていた人が得る利益と比べれば微小だから全く苦にならない。群居動物である人類は、自分だけではなく集団が得る利害も行動基準になる。
 我々は相手を慮ることに余りにも慣れている。多少の無礼であれば許容して波風を立てまいとする。譲り合っているからこそ日常生活は快適だ。しかし譲歩し続けていれば不利な立場に追い込まれかねない。こんな時に役立つのが政治家だ。政治家は押しが強くなければならない。多少強引であろうとも住民や国民の利益を拡大することが仕事だ。TPPであれば日本に有利な条件にするべきであり、アメリカを喜ばせることを優先してはならない。
 あのルーピー鳩山氏はきっと「良い人」なのだろう。どこへ行っても相手に迎合する。後先のことを考えずに譲歩するから国政を混乱させた。沖縄県民の意向を汲んで安易に「最低でも県外」などと発言したからそれが基準になってしまった。
 譲歩は個人にとっては美徳だが集団にとっては悪徳になり得る。日本はアメリカや中国や韓国に対して譲歩し続けていた。政治で譲歩するだけならともかく、歴史的事実についてまで譲歩していた。原爆投下は人道的行為であり、南京では30万人が虐殺され、従軍慰安婦を強制連行したと黙認していた。だから彼らは付け上がった。
 政治とは駆け引きであり何かを譲ることによって何かを得なければならない。小の虫を殺して大の虫を助けることが必要だ。第二次世界大戦後のサンフランシスコ平和条約の時点では、たとえ理不尽であろうとも嘘を受け入れざるを得なかった。米国による占領から脱却して独立国の地位を獲得するためだ。しかしいつまでも敗戦国の立場に甘んじている必要など無かろう。誤った歴史は見直されるべきだ。
 譲歩は必要だ。しかしいつも譲歩ばかりしていれば舐められる。やはり是々非々の立場を貫くべきだろう。中国と韓国は延々と「謝罪が足りない」と言い続けている。これを文字通りに受け取るべきではなかろう。これは詫びを入れろということ、つまり尖閣諸島と竹島を差し出せという意味ではないかと私は勘ぐっている。

保身医療

2015-05-11 09:44:35 | Weblog
 医師は決して好き好んで無駄な医療を続けている訳ではあるまい。何らかの事情があってそうせざるを得ないのだろう。医師の立場から考えてみよう。
 風邪の患者であれば安静にして自然治癒力に任せるのが一番だ。しかしヨーロッパの医師とは違って何もせずに帰す訳には行かない。症状を緩和する薬を処方せざるを得ない。たとえそれによって風邪が長引くことになろうとも一時凌ぎをしなければヤブ医者という悪評を立てられてしまう恐れがある。
 風邪に抗生物質が効かないことなど百も承知だ。しかし肺炎の初期症状は風邪症候群に似ており、肺炎と分かってから対処すれば「医師が適切な処置を怠ったから風邪をこじらせて肺炎になった」という言い掛かりを被りかねない。だから99%確実に風邪と分かっていても「念のために」と言って抗生物質を処方する。このことによって耐性菌が増えようと彼に責任は無い。彼はone of themに過ぎない。どの医師もやっていることなのだから彼もそうやって保身を図る権利がある。
 痛みを訴える老人は多い。これらの多くは老化現象だから治療できない。しかしこんな患者こそお得意様だ。レントゲンやMRIや採血などで検査漬けにすれば保険の点数が稼げるし患者も喜ぶ。どうせ治せないのだから「原因不明のイタイイタイ病です」とでも言っておけば良い。老人は老化ではなく病気と言われれば納得する。それどころか「やっぱり病気だった」と大喜びする。これは奇妙な話だ。老化に伴う痛みを勝手に「イタイイタイ病」と名付けただけであって状況は何も変わっていない。老化であれば治らないが病気であれば治ると錯覚するのだろうか?
 あとは消炎鎮痛剤を処方するだけだ。痛みが緩和されれば病気が治まったと患者は勝手に勘違いするが、消炎鎮痛剤は治療薬ではない。ただ単に神経を狂わせて痛みを感じにくくしているだけだ。こんな薬を常用していれば副作用で医原病(薬原病)に罹るかも知れないが、医療は元々老化を治療することなどできない。できないことを要求された時、医師にできることは症状の緩和だけだ。消炎鎮痛剤を常用すれえば健康な人でも病気になると分かっていてもこれを投与しない訳には行かない。
 患者は医師に過剰な期待をする。医療によって治せる病気など殆んど無く、不快感を抑える薬によって一時凌ぎをしている内に自然治癒力が働いて治る。自然治癒力によって治せない病気は医師にも治せない。
 こう考えれば、彼の行為に違法性は無く他の選択肢も殆んどあり得ない。無駄な医療が横行するのは「患者様」の無知が最大の原因であり、医師はそれに迎合しているだけだ。医療改革のためには医療機関ではなく患者の意識を改革することのほうが急務だ。

2015-05-09 10:20:39 | Weblog
 大分市の高崎自然動物園で生まれたばかりの子猿にシャーロットと名付けたところ非難が殺到した。英国王室に失礼だという指摘だ。
 一昨年ウィリアム王子の長男ジョージ王子が誕生した時、ロシアではハリネズミに、オーストラリアでは有袋類のビルビーに、どちらもジョージという名が付けられた。昨年ウィリアム王子の一家が訪豪した際、ジョージ同士のご対面があり、ジョージ王子がビルビーの縫いぐるみを投げ捨てるシーンは大いに笑えた。
 ハリネズミやビルビーであれば失礼とは感じないのになぜ猿なら失礼なのだろうか。実際の話、猿に喩えられると非常に不愉快だ。ヨーロッパで黒人のサッカー選手に向かってバナナを投げ入れれば人種差別として犯罪になる。黒人を猿扱いしたと見なされるからだ。これはかなり微妙な問題だ。
 ニーチェの「ツァラトゥストラの序説」にはこう書かれている。
 「人間にとって猿とは何か。哄笑の種、または苦痛に満ちた恥辱だ。(中略)かつてあなた達は猿だった。しかも今も人間はどんな猿以上に猿だ。」
 猿に馴染んでいる日本人にとって猿の動作は滑稽だ。人間と似て非なるものだからだ。
 ヨーロッパや北米に猿はいない。欧米人は猿に対して特別な感情を持つ。だから彼らは日本やタイやインドで猿を見ると大喜びする。
 類人猿に対する感情はもっと複雑だ。チンパンジーやゴリラやオランウータンは余りにも人間に似ている。人類とは何か、という問いを突き付けられる。
 イギリス人はユーモアを解しジョークを好み寛大だ。だから今回の「お猿のシャーロット」は余り問題にされない。しかしこれを国際常識と考えたら大間違いだ。もし猿に「パククネ」とか「キムヨナ」とか「シューキンペイ」などと名付けようものなら猛烈な抗議を受けることのなるだろう。日本人は猿が示す寓意に鈍感過ぎる。冗談が通じる相手と通じない相手があるように、相手を識別する必要がある。イギリスのような寛大な文明国ばかりと思ってはならない。

無法自転車

2015-05-09 09:45:51 | Weblog
 愛知県で路上を走る自転車を調べたところ、1,654台中219台、率にして13.2%が道路交通法に違反していたとのことだ。内訳は①イヤホン着用133台②並走50台③逆走28台④スマホ6台⑤二人乗り2台とのことだ。たった13%と言う勿れ。この数字はあくまで調査地点を通過する瞬間での数字だ。追跡調査すれば遥かに高い率になるだろう。信号無視が1台も無いということは多分、信号機の無い場所での調査だろう。もし交差点で調査をすればこんな数字では済まない。自転車の信号無視は非常に多い。それは多分、一旦止まってから動くことと比べて、止まらずにそのまま進行するほうが遥かに楽だからだろう。
 これは多分、雨の降っていない日の調査だろう。雨が降っていれば傘をさして自転車に乗っている人は決して少なくない。2・3月での調査とのことだが、夏であれば日傘をさす人もかなり多い。勿論違法だ。
 目溢しをしたのかあるいは歩道の無い場所で調査したのかよく分からないが、歩道走行に関する違反が1件も無いことは不可解だ。最も問題が多いのは歩道走行だろう。道路交通法上、歩道を走る自転車は車道側を徐行せねばならない。しかし車道側と建物側はほぼ半々だろう。つまり全く無視されているということだ。徐行する自転車など殆んど皆無に近い。この車道側を走るというルールは非常に重要だと思う。2013年12月1日付けの「車道側」で詳しく書いたが、対歩行者・対自動車のどちらにおいても安全性が大きく高まる。こんな簡単なことで安全になるのだから周知徹底を図るべきだろう。
 欧米と比べて日本の自転車事故率は非常に高い。これほど利用者が多いのに継子扱いされているからだ。自転車専用道は極端に少なく法律もお座なりだ。多分大半が都会に住んでいる国会議員や官僚は電車や自動車を使っており、自転車に乗ることなど殆んど無いからだろう。自転車専用道を作るためには様々なハードルがあるが、教育の徹底であれば金も時間も余り掛からない。少なくとも、歩道では車道側を走ることのメリットぐらいしっかりと教え込んで貰いたいと思う。こんな簡単なことを実践するだけで自転車の安全性は大幅に高まる。

映像

2015-05-07 10:22:15 | Weblog
 北名古屋市徳重土部の呼称が「どぶ」から「つちべ」に変えられたそうだ。「どべ」では最下位を意味するし「つちぶ」では恥部を連想させるということからこの呼称が選ばれたそうだ。
 どうせ変えるなら北名古屋も見直したらどうだろうか。北名古屋市は2006年の市町村合併で生まれたそうだが、初めてこの名を聞いた時は「汚な小屋」かと思った。北名古屋市でも「汚な肥やし」に聞こえる。
 「汚な」には古い思い出がある。「スーパージェッター」というテレビアニメがありその主題歌はセリフから始まった。
 「流星号応答せよ 流星号 来たな よし行こう」このセリフの「来たな」が私にはいつも「汚な」に聞こえた。
 主人公は腕時計型のウェアラブル端末を使ってコンピュータ制御のエアカー流星号を呼び寄せるのだがその時に「流星号応答せよ」と命じる。しかし流星号は応答などせず黙って飛んで来る。何のためにわざわざ呼ぶのか不可解だった。ボタンを押すだけで充分なのに、と思ったものだ。しかしそれでは絵にならないからこんな不自然な設定にしたのだろう。
 テレビ番組は映像を重視する。ニュースであれば現場か犯人の映像が欠かせない。しかしこの映像偏重の姿勢が番組を歪めることがしばしばある。映像化しにくいテーマは採り上げられにくい。「平和」とか「秩序」とか「思考」とかいった抽象語は絵にならない。だからニュースは犯罪や戦争ばかりになる。テレビでは絵の無い情報よりも情報価値の無い映像のほうが優先される。
 テレビのこんな体質を知っているからこれを利用しようとする人が少なくない。選挙では美人候補が注目されるから芸能人崩れが重宝される。STAP細胞も割烹着の若い女性が主役でなければあれほど注目されなかっただろう。テレビは常に見栄えに拘る。
 こんなことを続けていれば日本人は抽象的思考力を失って外見と空気に支配されるようになってしまう。「百聞は一見に如かず」と言うように映像の持つ情報量は絶大だ。しかし映像偏重を放置すべきではなかろう。

平和憲法

2015-05-07 09:44:17 | Weblog
 日本国憲法を「世界に誇る平和憲法」と絶賛する人の無知には呆れる。憲法で何らかの平和主義を謳っている国は182か国中150国もあるそうだ。他国のことを知らずに自国が一番だと思い込むのはウリジナルと同レベルの愚かな「ジャリジナル」だ。全く恥ずかしい話だ。
 一体どこの国が侵略や戦争を賛美する憲法を定めるだろうか。どの国も綺麗事を並べている。大切なのは美辞麗句を連ねることではなく、実際に有効であることだ。中国の憲法でさえ、言論・出版だけではなく信仰の自由まで認めている。但し前文で「中国共産党の指導の下」と規定しており、党が憲法の上に位置付けられている。だから有名無実の憲法だ。日本も時の権力者が勝手に曲解をしているのだから中国の憲法と大差は無い。中国で憲法が認める信仰の自由が守られていないのと同様、日本では憲法に基づく平和主義が守られていない。こんな憲法は飾り物に過ぎない。全く存在価値が無い。
 日本国憲法を世界一優れた完璧な憲法と思い込む妄想を捨てて、解釈改憲を許す欠陥憲法と位置付けし直す必要がある。私は憲法9条の第3項として「専守防衛の自衛権を持つ」と明記すべきだと考える。書かれていないから政治家や学者が勝手な解釈をする。明文化すれば曲解できなくなる。現行憲法を不磨の大典扱いするから欠陥憲法が少しもマシなものにならない。
 改めるということに対する無理解もある。改めるとは決して否定することを意味しない。補強や改善を意味することが少なくない。どんな立派な建物も年を経れば劣化する。こんな時に「歴史的建造物に指一本触れるな」と主張する原理主義者が現れて補強工事を妨害すればいずれ倒壊してしまうだろう。同じように憲法も改善を続けなければ曲解によって腐敗する。
 曲解には歯止めが掛からない。曲解を防ぐ方法は明文化以外に無かろう。一字一句変えさせまいとする原理主義者が曲解による破壊を招いているとなぜ誰も指摘しないのだろうか。
 玉虫色の憲法など要らない。玉虫色のまま放置するからこそ様々な解釈が生まれる。憲法は立憲主義の根幹だ。改憲にヒステリックに反対する勢力があるのなら改憲ではなく加憲によって明確化しても良かろう。権力者による曲解が放置されている日本と比べれば、憲法に基づいて共産党が憲法解釈権を一手に握る中国のほうが余程法治国家だとさえ言える。憲法の蹂躙をこれ以上許さないためにも、国民の意思に基づいて曲解の余地を残さない憲法に改良すべきだろう。

主観的時間

2015-05-05 10:11:02 | Weblog
 ボクシングの「世紀の一戦」はメイウェザー選手がパッキャオ選手に判定勝ちした。メイウェザーの強みは驚異的なスピードだ。単に動作が早いだけではなく動体視力も優れている。多分、主観的時間が早く経過するのだろう。
 主観的時間が早い、とは分かりにくい表現だと思う。漫画の「サイボーグ009」と「エイトマン」についてイメージして欲しい。どちらも超高速で動く能力を備えており、彼らが超高速で動く時、何が起こるか?周囲の動きが殆んど止まって見える。脳の活動速度が百倍になれば、周囲の動きは百分の一になり、自分の動きは百倍になる。最近の漫画であれば「はじめの一歩」に登場する稲垣学というボクサーがその典型例だ。一旦ギアが入れば対戦相手の動作がスローモーションのように見える。
 実は私自身それを実際に体験している。アルバイトでトランポリンの指導員をしていたが、宙返りをする時には時間感覚が変わる。客観的には短時間の動作なのだが、本人には充分な時間に感じられる。だから着地に失敗しそうになってもちゃんと対応できる。
 羽生結弦選手が4回転ジャンプを跳ぶ時、観客にとってはほんの一瞬だから何回転したかさえ分からない。しかし本人はしっかり確認しながら回転しているから演技中に動作を修正することもできる。
 ベーブルースは当時の78回転のレコード盤の文字が読めたそうだ。これは単に動体視力が優れていたのではなく主観的時間を早めることができたのだろう。打撃の神様と呼ばれた川上哲治氏は「ボールが止まって見える」と言ったが、必要な時に主観的時間を早めることができたのだろう。もしいつもボールが止まって見える状態であれば退屈で仕方がなかろう。子供がじっとしていられないのは時間が早いからであり、老人がのんびりしているのは時間が遅いからだろう。
 あるいは崖から落ちて奇跡的に助かった人は、その短い時間に一生を走馬燈のように思い浮かべることが多いそうだ。だからこそ飛降り自殺は恐ろしい。ほんの一瞬の筈の落下が驚くほど長時間と感じることもあり得る。途中で飛降りたことを後悔しても手遅れだし、もしかしたら腕が砕け頭蓋骨が陥没するところをゆっくりと体験せねばならないかも知れない。一瞬の苦痛で総てが片付くと思っていれば大間違いになることもあり得る。

死因

2015-05-05 09:35:10 | Weblog
 あるご利益宗教は、信仰することで災害が軽減されると謳っているそうだ。例えば交通事故に遭っても、本来なら死ぬ筈の事故が半身不随で済み、半身不随の筈の事故が骨折で済むと言う。こんな馬鹿げた宗教を信じる人のお目出たさに呆れるが、似たことを厚生労働省が公言している。インフルエンザワクチンを接種すれば発症しにくくなり発症しても軽症で済む、とのことだ。これは全くデータに基づいていないし逆にこれを否定するデータなら沢山ある。
 あるいは降圧剤の効果も疑わしい。200mmHgを超える人であれば多少意味もあろうが、基準値をほんの少し上回る程度の人の場合、薬を飲まない人のほうが健康で長生きできるようだ。自覚症状があればそれを緩和することが目標になるが、検査数値が多少高い程度の人であれば、数値を下げることが自己目的化する。元々自覚症状が無いのだから、高血圧になったのは何らかの支障を克服するために必要な適応だろう。スポーツをすれば呼吸や脈拍が早くなるようなものであって、大半の人にとっては実は適性値だろう。それを無理やり下げるのだから有害であって当然だ。勿論どんな薬にも副作用があるのだからその薬害も確実にあるだろう。厚生労働省の2015年版「食事摂取基準」からコレステロールの摂取制限が撤廃されたことを受けて、1日に動脈硬化学会もコレステロール摂取制限を撤回したが、薬による数値操作の無意味さにもいい加減に気付いて欲しいものだ。
 昨年の日本人の死因は①癌②心疾患③肺炎④脳血管疾患⑤老衰とのことだ。癌の臓器別では①肺②胃③大腸④肝臓⑤膵臓となっている。
 大抵の人は肺炎が死因の3位になっていることに驚くだろう。実はこれは高齢者の誤嚥性肺炎が大半を占める。認知症などの高齢者は嚥下障害を起こして飲食物を肺に入れてしまうことが多い。これが肺炎の原因になる。だから肺炎の増加とは癌の増加と同様、日本人が長寿になった証しと言える。
 癌の中で最多の肺癌死を減らすことは簡単だ。他の病気で死ぬ人が増えれば肺癌で死ぬ人が減る。人は1回しか死ねないのだから統計上ではそういうことになる。肺炎も同じことであり、他の病気で死ぬ人が減ったからこそ高齢者の肺炎が増えたということだ。肺炎を無闇に恐れる必要は無い。

改憲

2015-05-03 10:16:44 | Weblog
 今日は憲法記念日だ。マスコミ各社は改憲の賛否などを問うアンケートを実施するが、どのアンケートでも欠けている重要な質問がある。それは「憲法全文を読んだことがあるか?」だ。読みもせずに是非を判断することはできない。一部を読んで否定することは可能でも、全文を読まずに肯定することはできない。これは食べたことの無い料理の味を評価するようなものだ。
 ではなぜ食べたことの無い料理を評価できるのか?聞き齧ったことを鵜呑みにしているからだ。こんな人の評価を同列に扱うべきではない。憲法は膨大な量の刑法などとは違って短時間で通読できる。憲法について考える前に憲法を知らねばならない。知らないことについては判断できない。実際に全文を読んで、このままで良いと考える人は殆んど皆無だろう。
 まず挙げられるのは悪文であることだ。「てにをは」など修正すべき箇所は沢山ある。よく分からない曖昧な表現も少なくない。
 第9条については、これだけ曲解を許しているのだから、曲解を許さない内容に改めるべきだろう。空文化した条文は最早有害無益なだけだ。
 絶対に改めるべきだと思うのは第89条だ。「公金その他の公の財産は(中略)公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」改憲を否定する人はこの条文を知っているのだろうか。知っているなら今すぐにでも、私立学校に対する助成金を違憲として訴えるべきだろう。護憲を唱えるのであればそうするべきだ。私は全く逆に、助成金を許容するためにも改憲が必要と考える。平気で曲解をしている人には、権力者による曲解を咎める権利など無かろう。 
 第15条も空文だ。「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」とし「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。」と定めているのに未だこんな選挙は行われたことが無い。総ての公務員を選定することは金銭的にも大変だが、事務次官や副知事あるいは実質的国営企業の社長などの信任投票であればあっても良いと思う。勿論NHKの会長も対象とすべきだ。
 憲法とは時の権力者の暴走を防ぐための防波堤だろう。だから権力者による曲解を許してはならない。もし憲法が時代遅れになっているなら恣意的解釈によって誤魔化すのではなく、誤解を許さない形で明文化つまり修正すべきだろう。明文化しておけば歯止めが掛かる。曲解が許されてしまうのは権力者だけが悪い訳ではなく、曲解を許すような憲法の大きな欠陥とも言える。曲解に怒る人こそ改憲論者であるべきだ。護憲論が曲解を招いている。