俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

学習

2016-04-22 11:18:27 | Weblog
 私の入院中に、中学生の少女が2年間、誘拐・監禁されたという事件が発覚した。ワイドショーなどでは犯行そのものよりも、逃げるチャンスが幾らでもありながらなぜ逃げなかったのかということに注目して「学習性無力感」という聞き慣れない言葉も使われていた。
 類似の行動は多くの動物に見受けられる。電流を流した檻に閉じ込められた動物は初めの内は檻を押す。しかし触れる度に電気ショックを受けるからその内、檻に近付かなくなる。檻が危険であると学習するからだ。ところが檻に電流が流れなくなっても檻に近付かなくなる。以前の不快な記憶が残っているからだ。この傾向は哺乳類などの高度な動物ほど顕著であり鶏や蝶などはすぐに忘れて何度でも危険な目に遭う。人は彼らを愚かだと嘲笑する。
 動物の行動の多くは本能ではなく学習に基づく。柔軟性の高い学習に基づいたほうが複雑な自然に対してよりよく適応できるからだ。
 人類もまたこの軛(クビキ)から逃れられない。「羹(アツモノ)に懲りてナマスを吹く」とも「3つ子の魂百まで」とも、あるいは`A burnt child fears the fire'とも言われる。トラウマもこの一種だし多くの偏見もこうして形成される。西洋人の多くが進化論を否定したがるのは幼い頃からキリスト教を教え込まれているからだ。
 彼らを笑うべきではない。我々も多くの偏見を持ち続けている。マスコミによって植え付けられた偏見から離脱できる人は余りにも少ない。貧しい人からも平等に徴収する消費税は典型的な悪税なのだが日本人はそれを忘れている。明らかに矛盾した「従軍慰安婦の強制連行」を多くの朝日新聞の読者は信じていた。偏狭なイデオロギーにかぶれたまま目覚められない人は無数にいる。
 知識や常識を疑おうとしない人は数度感電しただけで生涯檻に近付かない動物のようなものだ。何度でも檻で感電する鶏や蝶との差は五十歩百歩だろう。

美味

2016-04-22 10:33:09 | Weblog
 私は最早、飲むことも食べることもままならない。ヤクルト1本飲むことにさえ一苦労する始末だ。従って食欲はゼロの状態だ。固形物を食べてもすぐに吐いてしまう。
 そんな私が無分別な行動をした。焼き豚を食べた。案の定すぐに吐いてしまった。誰もが知っているとおり嘔吐は苦しいが、私の場合、嘔吐後もその苦しみはしばらく続く。それを承知していても味わいたいという欲望に駆られた。
 これは明らかに「食欲」とは別のものだ。「味わい欲」とでも呼ぶべき欲求だろう。無理して食べたものの焼き豚は旨かった。特に焦げた脂の旨みにはここ数か月間感じたことの無いほどの喜びを感じた。
 人は美味に執着する。口で感じる喜びは他の欲望充足とは全く別次元とさえ思える。
 普段私は余りテレビを見ないが、集中力と思考力が衰えて本をまともに読むことさえできなくなった私にとっては最も手ごろな娯楽だ。見ていて呆れたことは、一日中、食べ物を頻繁に取り上げていることだった。これは、食べられない私の僻みではあるまい。旨い物に対する人間の執着の現れだろう。
 低カロリー食を「ヘルシー食」と呼ぶことは根本的に間違っているとは思うが、人に飽くことなき美食への欲求があるのなら、これを抑制することは確実に健康に貢献するだろう。その意味ではヘルシーであり得る。特に女性においてはあの執拗な美への執念をさえ凌駕する強烈な欲求だろう。
 安くて旨い食事に拘り続けた自分の生き方を今頃になって悔やんでいる。文化に対する投資には余り惜しまなかった積もりでいたが、人類にとって最も重要な文化である食文化に対する理解は余りにも不充分だったと思う。

余命数か月

2016-04-21 11:06:26 | Weblog
 私は余命数か月らしい。食道にできた癌が動脈と肺に浸潤しているために食道と肺の間に小さな穴が開きそれが肺炎を起こしているとのことだ。動脈や肺の壁が癌細胞になってしまえば癌を取り除けない。癌の破壊がそのまま動脈や肺の破壊になってしまうからだ。
 治療不可能ということでステントによる延命を勧められたが放射線治療を受けることを敢えて選んだ。仮に放射線によって癌細胞だけを殺せれば正常細胞が増殖して小さな穴を埋めるという可能性が少しだけあるからだ。しかしそう上手く行くとは考えられず、多分、治療開始から2・3週間後には肺炎を悪化させることによって死期を早めることになるだろう。それでも座して死を待つよりはマシだと判断した。
 近々この世を去る私にできることは何だろうか?できるだけ多くの良いものをこの世に残すことだろう。そのためにはたとえ低下した知力を使ってであろうとも精一杯努力して少しでも有益な記事を書き残したい。今後、更に知力の低下や性格の劣化も起こるだろうが、人間としての尊厳性も失いたくない。
 80歳まで遊んで暮らすつもりでいたから私の遺産は妙に多い。妻子を持たない私にできることは兄弟に少しでも多く残すことだろう。医療費はやむを得ないが、できるだけ無駄遣いを避けて少しでも多く残したいと考えている。何しろ三途の川の渡し賃はたった6文だそうだ。
 退職後、一人暮らしの母を助けるために、住み慣れた大阪を離れて帰郷したつもりだったが、最後の数か月はすっかりお荷物になってしまった。何とも不本意な結末だ。憧れだった「老春」も果たせなかったのだから、人生とは全く計画通りには進められないものだ。

避難船

2016-04-20 15:59:31 | Weblog
 今回の震災を反省して、避難施設の充実を図るべきだと主張されている。しかし個々の自治体に任せるべきではあるまい。殆んどの施設が使われないまま老朽化することになるだろう。これは国によって集中的に作られるべきだ。
 「寝言を言うな」と言われそうだ。震災はどこで起こるか分からない。だからこそ津々浦々に作られるべきだと誰もが考える。しかし分散させる必要はあるまい。避難施設のほうが移動すれば済むことだ。それを可能にするのが船舶を使った移動避難施設だ。
 日本の大部分の都市が海岸に位置する。こんな人口密集地に巨大な避難施設を作ることは難しい。しかし船であれば自由に移動できる。避難所が震災地に移動できれば、全国に避難所を作るのと同等の効果が期待できる。
 自力で動ける船であっても津波によって被災する可能性はある。それでも危険時には沖に逃れることによって回避することが可能だ。動けない地上の避難所と比べればはるかに安全だろう。
 救援物資の運搬においても海運は陸運に優っている。海運のために道路は必要無い。道路がズタズタに寸断されても海路は健在だ。運送可能な量も陸運とは桁違いに大きい。往路で大量の救援物資を運んだ船の空いた場所はそのまま避難所として活用できる。場合によっては避難民をそのまま移送することも可能だ。
 病床に着いている私は普段とは比べられないほど多くの時間をテレビの視聴に使っているが、海上自衛隊や海上保安庁の活躍を全く知らない。18日になってようやく国土交通省の依頼を受けた民間企業の船が物資を運んだだけだ。
 地域ごとの避難施設も必要ではあるがその収容力は余りにも乏しい。移動可能な船舶を使った避難所を国が常備すべきだろう。四方を海に囲まれた日本はこの天然のインフラをもっと活用すべきだ。

被災者様

2016-04-19 09:57:15 | Weblog
 熊本地震での被災者の皆さんは大変な苦労をされている。この被災者を批判することはタブーだろうが敢えて批判する。
 今回の救援が困難である大きな要因は、余震が前代未聞の規模であることだ。交通の問題だけではなく、もしかしたらこれから本震が起こるかも知れない状況だから、外部から支援に駆け付けることは極めて困難だ。直接肉体的に支援をできるのは自衛隊など特殊な組織に所属する人に限られているから支援者数が絶対的に足りない。現在の現場での支援者の大半が実は被災者でもあることを見逃すべきではない。被災者自らが支援者とならざるを得ないのが現状だ。
 こんな中で「2時間も並んでやっと水とパンが貰えるだけだ」という不満を漏らす被災者がいる。なぜ彼らは一方的に被災者であろうとするのだろうか。彼らの一部が自ら支援者側に回れば2時間待ちが1時間待ちに改善されるだろう。
 役割は流動的なものだ。支援者を演じる被災者を前にして、一方的に被災者を演じる人々は恥ずかしくないのだろうか。
 この主張は少なからず軽率なものだろう。私の健康状態が極悪なために推敲無しに書き殴っている。論理的あるいは常識的には不備もあるだろうが真意をくみ取ってほしい。