[寄稿]追悼・富山妙子
「日本の戦争責任を問う知識人であり、反戦民主主義活動家」
チェ・テマン|国民大学芸術学部教授・美術評論家
「亡くなるまで鋭いおばあさん」だった富山妙子先生が18日午後3時、東京の自宅で死去したという知らせを、最期を看取った孫娘から聞いた。1921年11月6日に生まれた彼女が満100歳を3カ月後に控え、「記憶の海」へと旅立ったのだ。
コロナ禍で1年間延期した末、今年3月から延世大学博物館で開かれている回顧展「記憶の海へ――富山妙子の世界」の展示図録で、富山さんは韓国との出会いを「救い」と記したほど、韓国と縁の深い画家だった。彼女は日本の戦争責任を問う知識人であり、反戦と民主主義のための活動家であり、フェミニストだった。私は富山さんを、作品ではなく、著書『解放の美学:20世紀の画家は何を目指したか』を通して初めて知った。民主化への熱望が炎のように燃え上がった1980年代。この本は、美術の社会的役割について悩んでいた私にとって恵みの雨のようだった。
冨山さんが韓国とアジアを認識したのは1930年代だった。満州地域に転勤した父について中国に渡り、大連とハルビンで女学校に通った彼女は、日本によって犠牲になった中国人を見て、自分が植民支配者であることに気付き、アジアについて自覚した。女学校でハングルの名前を使い、韓服(ハンボク、韓国の伝統衣装)を着た友達に出会い、朝鮮人についても知ることができた。進学のため、朝鮮半島を経由して日本に帰る汽車の窓越しに朝鮮の青年が日本の憲兵に殴られる姿と荒廃した土地を見て、植民地支配と被支配の関係を発見した。
日本が敗戦した後、炭鉱を取材していた彼女は、1960年代に炭鉱が閉鎖されると、働き口を求めて南米に旅立った炭鉱労働者たちのもとを訪ねた。その過程でチリとアルゼンチンのクーデターと軍事独裁の実情を目にした彼女は、1970年の韓国訪問をきっかけに韓国の軍事独裁体制から弾圧を受ける芸術家とも知り合った。
満州での学生時代、「植民支配の現実」に目覚め
1960年代南米を訪問、炭鉱労働者を取材
1970年訪韓を機に、韓国民主化運動と連帯
朴正煕政権時代、入国拒否されたことも
「5月光州」に怒りと感動覚え、版画シリーズを制作
「故人の遺志、抵抗の継続で続く」
かつてハルビンで知り合った友人を探してソウルを訪れた富山さんは、ソウル駅前と東大門市場で、貧しい中でも一生懸命に生きている韓国人女性の姿を鉛筆と水彩で描いた。このスケッチは1975年、「在日同胞留学生スパイ事件」で投獄中だった徐勝(ソ・スン)、徐俊植(ソ・ジュンシク)兄弟に面会に行く際に描いた「西大門刑務所で面会を待つ母」と共に、後日民主化運動記念事業会に寄贈された。民主化運動で投獄された詩人、金芝河(キム・ジハ)などを通じて、戦争と分断、独裁体制が植民主義の遺産であることを確認しただけでなく、韓国を新しく発見した。金芝河の詩をモチーフに詩画集とスライドを制作したという理由で、韓国政府から入国を拒否された富山さんが再び韓国に出会ったのは、1980年の光州(クァンジュ)の5月だった。
ニュースで「5月光州」の知らせを聞いて作家は韓国の民衆がついに立ち上がったという感動とともに、戒厳軍の残酷な鎮圧により市民が犠牲になったことに驚愕と怒りを覚えた。こうした気持ちを胸に、5・18をテーマに「倒れた者への祈祷:一九八〇年五月・光州」の版画シリーズを制作した。
富山さんの作品は、光復50周年を迎えた1995年、彼女について書いた美術評論家ユン・ボムモの企画で、東亜ギャラリーで開かれた個展「従軍慰安婦のためのレクイエム」を通じて韓国に本格的に紹介された。同年開かれた第1回光州ビエンナーレの「光州5月精神」展と、2000年の第3回光州ビエンナーレの「芸術と人権」展でも光州をテーマにした彼女の作品が展示された。作家にとって光州の5月は、分断と戦争、軍事反乱と独裁につながる韓国現代史の桎梏(しっこく)と矛盾を圧縮した大日本帝国の残滓でもあった。
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