私たちが、自分自身の心の中を覗いてみれば、そこに善と悪が両方存在していることに気づくだろう。
しかし、ある人は正しいことをして、ある人は悪いことをする。
そこに、どのような違いがあるのだろうか。
ただ、善人と悪人がいるだけなのだろうか。
イスラエルの諜報機関モサドが、ユダヤ人を600万人ガス送りにしたといわれるアイヒマンを1965年に捕まえた。
極悪人かと思いきや、ただの小心者の小役人にすぎなかった。
そこで、悪は人格に帰属するのではなく、状況に帰属するのではないかという疑問が生まれた。
悪が状況に帰属するとは、あるシステムの中で役割が与えられ、その文脈(ストーリー)に沿うような形で悪いことをしてしまうということである。
悪は、個人の人格によるのか、システム上の文脈から生まれるのかが問題とされた。
そこで、スタンフォード大学で実験が行われた。いわゆるスタンフォード監獄実験である。
その具体的内容は、普通の大学生に、刑務所内の、看守役と囚人役に分かれてもらい、それそれの役割を演じてもらうというものである。
期間は2週間、刑務所は大学の地下実験室を改造し行われた。
最初に囚人役の大学生に屈辱を与える。実際の実験では、本物の警察からパトカーで連行され、逮捕までされた。
時間が経つに連れ、看守役は誰からも指示されることなく、囚人役に罰を与えるようになる。だんだんエスカレートし暴力的行為も行われるようになった。
このように看守は権力を行使し看守らしく振る舞い、囚人役はより囚人らしい行動をとるようになった。
つまり、悪は状況に帰属することが証明されたわけだ。
これに近いことは、私たちの日常生活でもあると思う。
例えば、だめ社員でも役職がついたらバリバリ仕事をやり始めたり、その逆もしかり。
バイトを変えたりすると状況が変わるから演じるべき役割もかわる。社長がマックでバイトしたら嫌でも下っ端を演じなくてはならない。
システムが作り出す状況には、個人が抗うことにできないような力がある。
流れが悪い方向に向かっていることが分かっていても、その文脈に対抗し正しい行為をすることは難しい。人は波風を立てないようにする。そのほうが楽だからだ。
だが、その流れに逆らうことも、不可能ではない。
はみ出し者になることを恐れてはいけない。
多数派の作り上げたストーリーに身を任せないこと。
自分の意志消さないこと。
自分の中にあるヒロイズムに働きかけること。
学校や職場のいじめの問題なども、強くて悪い意志をもった首謀者に付和雷同者が流されていく。
ものを考えずに流されることは、罪だ。
悪いシステムにとらわれてはだめだ。自分自身で強力なストーリーを作りだし、システムの首謀者の仮想世界をぶち壊せ。
文脈に依存してはいけない。