昨日、リアル・スティールを観てきた。興味のある人は、まず予告編を。
予告編を観れば分かるように、明らかにロッキーを本歌取りした作品である。
本歌取りとは、和歌の技法の一つで、過去の優れた古歌の語句や構造を自分の作品に取り入れることである。
悪く言えばパクリなのだろうが、いわゆるパクリと一線を画するのは、真似する本歌に敬意を払いその作品をリスペクトしていることだ。
本歌の良さが忘れ去られることがないように、そのエッセンスを受け継ぎながら今風にアレンジしているともいえる。
このように、過去の作品の構造を受け継いで新たに作品を作っても、十分クオリティーの高い作品ができる。なぜこのようなことが可能になるかといえば、人間が良いと思うものには一定のパターンがあるからだろう。
ハリウッドの作品が神話などのプロップを取り入れているのはよく知られた話だ。まぁ、すでにロッキーはハリウッドでは神話的な話といえば神話的な話になってしまったので、それを元に話を作ってもそれほどおかしなことではない。
ロッキーは、無名のボクサーがラッキーなことに世界チャンピオンと対戦するチャンスを与えられ、チャンピオンに挑んで成功していくアメリカンドリームの話である。このリアル・スティールも、捨てられたオンボロロボットが、チャンピオンに挑んでいく話である。
両者とも、社会的弱者が圧倒的な強者に、努力し、挑み、勝利する(正確には判定負けだが)話である。
当然、このドラマの最高のカタルシスは、弱い者あるいは弱かった者が、強い者を倒すところにある。その瞬間に、私たちは熱狂する。
だが、この話を弱者が努力し挑み敗れ去っていくもの変えたらどうだろうか。敗れ方も僅差ではなく圧倒的にかつ惨めに叩きのめされるものだったとしたら。
多分、それほどカタルシスは感じないのではないかと思われる。勝つ瞬間がなければ、弱い者は強い者に勝てないという現実だけが突きつけられるだけで、全くつまらない話になってしまうからだ。そこから得られるのは、強いものには歯向かわないようにしようという教訓めいたことだけになる。そう感じる人が多数だろう。
だけど、私は違うんじゃないかなぁと主張しようと思う。それが今日の話の趣旨だ。
私は、悲しい事だが、努力し挑み、それでもなお敗れ去っていくのが人生なのではないかと思っている。そして、それでもいいと思っている。
もちろん、勝負は勝つためにやるものだ。そして、勝てればそれに越したことはない。しかし、勝負の行方にそれほどこだわるべきではない。
結果ではなくて、スタートに注目するべきである。まず自分の中にある過剰なエネルギーや衝動に働きかけることだ。生きているということは、エネルギーを発散していることで、そしてそれを絶やさないことでもある。そのエネルギーが強ければ強いほどいい。
その強いエネルギーが、どんなに強い相手でも怯むこと無く挑み挑戦していく勇気と誇りを育み、その結果不幸になったとしてもそれを受け入れる潔さを身につけさせ、その不幸すら笑い飛ばす強い魂をつくりあげる。
そもそも人間の生は必敗である。どんな人間も必ず死ぬ。どんなに体を鍛えて健康に気遣っても死ぬ。
だが、だからといって生きていることに意味が無いわけではない。むしろ逆で、死ぬからこそ生きていることが輝いてくる。
だから、結果的に負けたからといって、そのプロセスに意味が無いわけではない。
村上春樹が、「海辺のカフカ」で面白いことを書いている。シューベルトのニ長調は必敗の音楽だいうことだ。ちょっと引用する。
大島さん 「僕は運転しているときによくシューベルトのピアノソナタを大きな音できくんだ。どうしてだと思う?」
カフカ 「わからない」
大島さん 「シューベルトのピアノ・ソナタを演奏することは世界でいちばん難しい作業の一つだからさ。とくにこの二長調ソナタはとびきりの難物だ。僕の知る限り満足のいく演奏はひとつもない。これまで様々な名ピアニストがこの曲に挑んだけれど、どれもが目に見える欠陥をもっている。どうしてだと思う?」
カフカ 「わからない」
大島さん 「それはこの曲が不完全だからだ」
カフカ 「不完全な曲にどうして挑むんですか?」
大島さん 「ある種の不完全さを持った作品は、不完全であるがゆえに人間をの心を強くひきつけるんだ」
「シューベルトのソナタは、特にこのニ長調ソナタは、そのまますんなり演奏したのでは芸術にならない。シューマンが指摘したように余りに牧歌的だし、技術的にも単純すぎる。だからピアニストはそれぞれ工夫を凝らす。でも、それはよほど注意深くやらないと作品の品格を崩してしまう。このニ長調ソナタを弾くピアニストは例外なくそのような二律背反のなかでもがいている。質のよい稠密な不完全は人の意識を刺激し、注意力を喚起してくれる。完璧な音楽を完璧な演奏で聴いていたらそのまま死にたくなるからね。ある種の完全さは、不完全さの限りない集積によってしか具現できないことを知るんだ」
カフカ 「これまでに聴いたニ長調ソナタの中で
いちばん優れていると思う演奏はだれですか?」
大島さん 「一般的にいえば、たぶんブレンデルとアシュケナージだろう。でも僕は正直彼らの演奏を愛好しない。シューベルトというのは僕に言わせれば、ものごとの在り方に挑んで敗れるための音楽なんだ。それがロマンティシズムの本質であり、シューベルトの音楽はそういう意味においてロマンティズムの精華なんだ」
大島さん 「どう?退屈な音楽だろう」
カフカ 「たしかに」
大島さん 「シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ。僕も最初は退屈だった。今にわかるようになるよ。この世界において、退屈でないものにおいて人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ」
映画の中で息子は、父に向かって「勝って」とは言わなかった。「闘って」と言った。それがよかったと思う。闘う父親の姿が見たかったのだ。もっといえば、父親に勇気を取り戻して欲しかったのだ。負けるかもしれない状況で自分にできる限りのことをやって闘うこと。その勇気に人々は感動する。それが人のためであればなおさら。
挑戦し挑んでいくことそれが全てだ。一時的な勝利はおまけみたいなものだ。どんなに強いチャンピオンだっていつか誰かに負ける。
負けたっていいから闘おうぜ、という心意気が敗戦後の日本にはなくなっているような気がしたので、少し熱くなってしまった。
それにしてもヒュー・ジャックマンはかっこいい。役はそれほどかっこいいものではなかったが。