フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

弱者の時代

2011年12月21日 00時30分54秒 | 社会・政治・思想哲学

 政治のことを考えると、どうも絶望的な気分になってしまう。なぜかって。それは全ての人を救うような都合のいいような政策が無いからだ。
 民主主義を絶対視するのは良くない。皆の意見を聞き入れて、民主主義をうまく機能させるようにすれば、結局、中途半端なことしか決められず、ろくなことはない。
 
 政治について難しくいえば法の制定・執行ということになるのだろうが、一番のポイントは、金を集めること、それを分配することに尽きる。
 どの党がやっても誰が総理になっても、金の集め方や分配についてもめることにはかわりがない。うまくいきっこない。何かを決めるということは、誰かを黙らせることだから。


 外交のことはとりあえず置いておいて、カネ集めと分配に関して大きく2つに分けると、競争原理を徹底して強者に有利に働く自由主義的原理と稼いだ者からぶんどって弱者を救う社会主義的原理に分けられると思う。例えば、小泉構造改革は前者の考え方だ。
 
 私はブログの中で競争原理を働かせたほうがいいということを何回も主張しているから、自由主義的な考えかと思われるかもしれないが、そうでもない。
 人間は常に同じではない。時間軸の中で生きているからだ。人は生まれたばかりの時はなんにもできない。だから、人の手助けが必要だ。それから成長し独り立ちすると稼げるようになる。しかし、時が経てば老いて弱ってくる。
 時間軸の中では、同じ人間であっても、強者だったり弱者だったりする。だから、稼げるものが、弱いものを助けるのは当然のことだと思う。自分が何にもできないときに、大事に育ててもらったのだから、それに恩返しをするのは当たり前のことだからだ。
 
 ただ、問題はたいして弱くもないのに弱いふりをしている人間である。例えば、生活保護の不正受給みたいなことだ。
 今の時代は、弱者の方が金になる時代である。自分が弱く、力がないことを強く主張したほうが利益になる。弱く被害者であればあるほど有利に働く。こんな時代に強い人間が育つわけがない。
 強い者は黙っていても弱者を助ける。それが強い者だ。そういうことがかっこいいと思える時代がいいなぁ思う。
 本来、弱者が俺を助けてくれというのは権利ではないはずだ(憲法25条は権利にしちゃってるけどね)。
 稼げる者は、稼げない者を、当然助けてあげるけど、それを権利とするのはちょっと違うと思う。
 弱い者の主張が通れば通るほど、強い者がいなくなっていく。一生懸命やるのが馬鹿馬鹿しくなる本当に難しい時代だと思う。
 
 分配の難しさをパロディにした傑作のコントがある。どうぞ。

 


 


 

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